vol.21 建築家 高橋晶子


Takahashi Akiko
1980 京都大学工学部建築学科卒業
1986 東京工業大学博士課程修了
1986 篠原一男アトリエ(〜 88)
1988 ワークステーション設立
2004- 武蔵野美術大学教授
2009年7月に開催した東工大卒業設計展に際して、発行しましたフリーペーパーのインタビュー記事となります。


「説明するリテラシー
聞き手:鎌谷潤(g86),丸子勇人,宮城島崇人



「卒業設計/京都大学
鎌谷|高橋さんは京都大学で卒業設計をされたそうですが、卒業設計ではどういった設計をされましたか。
高橋|自分の実家(静岡県富士宮市)に建つ公共性の高いホールと広場を設計しました。私は80 年に卒業しているんですが、当時は実家には文化施設が無くて、0( ゼロ) のところに1個作りたいというスタンスでした。大都市にはそういうファシリティーは整っていたんですが、地方都市にはこれからという時だったので、まちのセンターの更新が出来て、顔を強化出来るような公共空間を作ろうと考えていました。富士宮では神社がまちのセンターになっていて、そこに参道のアクシスがありました。そのアクシスを延長してアクシス上に神社と対面するように文化施設を作ったということです。
鎌谷|地方都市のコミュニティのあり方を、その場所の歴史を踏まえ、敷地の情報にそれを翻訳し、設計されている。その敷地の読み込み方が明快で共感が持てます。学部時代から、地方都市に対する問題意識は持っていたんですか。
高橋|それが自分の問題意識の根幹になっているとは甚だ思えなくて、月並みなことを考えていたと思います笑。
宮城島|では、京大内では社会や建築に対する何か大きな問題意識を共有されていましたか。
高橋|当時は、磯崎さんを中心に、様々な問題意識の投げかけも出ていたのですが、私の周辺では同時代に敏感な人たちは意外と少なくて、それぞれがそれぞれに好きな建築家を探して好きなように勉強しているというような環境でした。もちろん建築好きの仲間はいましたが、
みんなで問題意識を共有することはなかったと思います。その時に抱いていた建築に対する消化しきれなかった考えは東工大に来てやっと解消したんですね。だから東工大で篠原先生に触れたときに自分の設計の第一歩が始まった。建築観や、社会に対する建築の位置づけなどがそこで初めて身に付いたと思っています。

「篠原スクール時代」
丸子|僕たちは篠原先生が亡くなられた年に入学したので、先生と直接触れ合う経験が無いんです。でも、今でも作品集や論考を見て議論し合うほど、先生の影響を受けています。当時の篠原先生のお話をお聴かせ下さい。
高橋|噂どおりカリスマ性が強い先生でした。住宅が主体だけれども、生活から入る建築とは全く違うアプローチだったので、学部生の頃からすごく魅力的だと感じていて、相当作品集などを読み込んでいました。研究室に入り、設計や建築観等々、様々な形で直に影響を受けましたね。具体的にいうと、先生が担当の輪読をする授業があった。そこで、ロラン・バルトの本をテキストにされたんです。それはイメージの意味作用についての本だった。バルトは記号論には収まりきらない、ものの意味に関わる話を非常に鮮やかに論じていたんですね。私はその本をすごく気に入って、意味作用について研究した修士論文を書きました。その後博士課程に進み、先生の作品の設計を担当しました。
似鳥|どういった作品を担当していたんですか。
高橋|私が担当したのは、先生の自邸でもあったハウスイン ヨコハマ。篠原研の場合は、担当者が一番年が若い人という教育的なルールが当時ありました。ですから、先輩たちに助けられながらも鍛えられましたね。
鎌谷|ハウス イン ヨコハマを僕たちと同じ年頃に担当されていたとは、とても羨ましいです笑。篠原先生は一つの作品にかける設計期間がかなり長かったそうですが、研究室の中ではどのように設計を進めていたのでしょうか。
高橋|設計活動はいわゆる民間の事業とは全然違うスピードでとてもゆっくりとしていたことと、事務処理系の業務はほとんどオミットされていたので、純粋にかたちを作っては直し、それをみんなで話し合うというようなことの繰り返しでした。先生は案が時間に耐えられうるかをすごく気にしていらした。だから、スタディは長い時間をかけて、毎日少しずつ少しずつ一進一退を繰り返しながら進めて行くスタイルでした。そのスタディ途中の先生を交えた議論は相当集中力を要するものでしたね。そこで建築の見方、考え方の多くを学びました。
似鳥|篠原先生の印象深かったお言葉はありますか?
高橋|よく「休んではいけない」と言われていました。やっぱり先生はパワフルでしぶとかった。相当反芻して考えをまとめていって、またそれを次の作品でも反芻するという、そのしぶとさが、悪い意味での作品主義になっていない理由のひとつだと思います。とにかくその言葉が私には一番大きかったです。

fig:ハウスインヨコハマ(設計:篠原一男研究室)

「再定義すること」
丸子|今は高橋寛さんと共同でワークステーションとして設計活動をしながら、武蔵野美術大学でご指導もなさっていますが、そこでは卒業設計に関しても教えることが多いと思うのですが、そういう所で心がけていることなどはありますか。
高橋|武蔵美の学生たちはスクラムを組んで一つのテーマを考えてみたり、ある分担したポジショニングを意識して話すということはあまりないですね。ただ、ベクトルやテーマを共有しうるグループを育てていくことは意識しています。よく学生に言うことは、「再定義」ということ。その場の状況をよく見て、定形じゃない提案をそのつどすると何かいいことが起きるんじゃないかとか、そういうスタンスでものを見るように話しています。甚だ東工大的かもしれないけど笑。

fig:高知県立坂本龍馬記念館( 設計:ワークステーション)

鎌谷|美大の卒業設計は、一分の一で作る人や、都市スケールで作る人などがいたりして、いろんなスケールの作品があるのが特徴的ですよね。
高橋|そうですね。穴を掘った人もいる笑。そういうインスタレーション作品をつくる人もけっこういます。武蔵美は大学全体が卒業制作するんですね。だから数日間は学校全体が美術館みたいになるんです。それに、他学科の作品と同じように並べられてあるから、学科を超えたつながりがそこに生まれているのが非常に興味深いですね。
宮城島|それは面白いですね!展覧会でまた、自分の作品の違った見方が発見できそうですね。
高橋|そうですね。ただ審査するには、表現媒体の違いが大きくて審査が難しいです。

「説明するリテラシー
鎌谷|京都大学東京工業大学、そして武蔵野美術大学と様々な大学と関われてきた中で、東工大建築に対してどのような考えをお持ちでしょうか。
高橋|血統のようなものを感じます。谷口、清家、篠原、坂本とずっと背負ってきている社会でのポジションや社会への問題意識の変遷を追いかけられる大学は少ないと思います。だから東工大の人たちの中には、継承するというか脈々と伝わっていくものが大きいと思う。それは
色々な形で。一部では反面教師としてでも伝わって行く。ブランドというと誤解されるかもしれませんが、かなり強固な縦のつながりを持ちながら広がっていくあり方がとても面白いと思います。比較すれば、京大はもう少しフレンドリーで、横にひろがっている感じがする。

fig:地域資源活用総合交流促進施設( 設計:ワークステーション)

鎌谷|なるほど。僕は今、展覧会のメンバーでもある山道、坂根たちと、その東工大スクラムを相対化する必要があるんじゃないかと考えて、他分野の最先端で活動している方々へのインタビュー活動や他大学の学生を集めた議論の場を企画したりして、僕たちオリジナルの評
価軸を見出そうと試みています。それはある種、東工大が反面教師なのかもしれません。笑
高橋|東工大って専門性が高いので、いい意味で玄人の中で深い話が出来ていく。一方で、阿吽の呼吸でみんなが話しているので、外の人からは分かりにくい、せまいというようなことは前々から言われてきた。建築の行為というものの表現のあり方がどんどんと多様化して、多義的になってきている中で、一般の人や専門領域が違う人の良さや個性をうまく引き出すために、いかにコミュニケートしていくかが重要になってきていると思います。つまり説明するリテラシー。それについては確かに、私は東工大時代学んでなかった。かつて、ある公園のコンペの審査に参加したんですが、審査員が都市計画や、造園、文化人類学など、色々なジャンルの方々で、そこでこの課題にぶち当たったことがありました。ある案をどうしても分かってもらえず、東工大の中では当然分かるというようなことも、丁寧に順を追って説明したのだけど、評価を変えることができなかった。そういう場面で自分のリテラシーのなさを感じたんです。
鎌谷|まさにそこで、多様化、複雑化した現代社会の中で、建築も必然的にそれを要請されている。そんな中で、東工大建築をもっと相対化する必要があるんじゃないかと思うんです。
高橋|私たちはそのコンペの後からは、自分たちがどういう領域の中で集中的に生きるかを考えるようになりました。だから、そういうポジショニングは自分のベクトルや専門性を鑑みて、時間をかけて環境設定していけばいいと思います。そこにはどれが良い悪いとかは無く、やはりある相対化の中でしかないと思います。そっかぁ東工大にもどんどんそういう波が来てるのね。笑
一同|今日はお忙しい中、ありがとうございました。

fig:インタビュー風景