vol.24 建築家 吉村英孝


Yoshimura Hidetaka
1975 愛知県豊田市に生まれる
1998 東京工業大学
2000 東京工業大学大学院卒業
2001 SUPER-OS 共同主宰
2005- 吉村英孝設計事務所主宰
   東京工業大学技術補佐員
2007- 東京理科大学非常勤講師

2009年度、東工大卒業設計展に際して、発行しましたフリーペーパーのインタビュー記事となります。


「話すこと」のひろがり
聞き手:鎌谷潤(g86),山道拓人(g86),坂根みなほ(g86),宮城島崇人


「90 年代の卒業設計」
山道|卒業設計当時の話を教えてください。
吉村|僕が卒業設計をした90 年代の後半は、まず図面を描くツールが変わる過渡期だったことが大きかったかな。いくつか上の先輩からCAD を使う人が出てきて、PC が学生の設計でも特殊なものから一般的なツールになり始めた頃で、時代的にはポストモダンがなんとなく終わったことがわかりはじめて、建築界が共通した目標(大きな物語)を失ったような頃でした。当時は、とにかく新しいものの考え方、特にPC などの違う分野で新しく起こり始めた事を、建築の分野にいかに応用できるかという風に考えていた節はありますね。ただ、いざ応用するとなると、もともと関連性のない分野だから、建築の何に何をどう対応させるかという適用の方法が、内容よりも重要になってしまう。今のプロセスの話なんかでもそうだけど、実際にはプロセス自体よりも扱う対象の選択の方が重要なんじゃないかと思います。語られないけどね。それで構成や空間の形式が選ばれる際には、独立した建築の物語ではなく、条件や環境などを逆に取捨選択する側面があるのではないかと思っていた。そこで卒業設計では、まず道に対して間口を持つという条件と、賃貸の事務所だと床面積が基準になるのに対して、容積を基準とすると何が変わるのかということを考えながらつくっていました[fig.1]。室単位の自由度を保ちつつ、単位の集積としての全体形でもなく、全体形の部分としての単位でもないような、微妙なラインに興味があったかな。
山道|周りの人はどんな感じでしたか?
吉村|今の学生とくらべると、自由だったと思うよ。今は何となく「東工大」を意識しすぎて、距離とるなり似たことをやるなり、不自由になっているかな。
山道|兄弟(兄:靖孝氏)が他の大学にいた影響もありましたか?
吉村|あるかもしれないけど、ほとんど建築の話をしたことはなかったね(笑)当時の風潮として、みんなが共通した目標を持てなくなると、作家性に閉じこもるようになるんだよね、ちょうど企業秘密みたいに。そんな時代だからあまり話さなかったかな。当時の東工大生もあんな製図室があるのに割と閉じていて、話すことが重要だよと教えてくれる人もいなかったし、話すことにどう
いう価値があって、その上で、どうやったらオリジナリティや個人が位置づくのかを考える土壌も無かった。
鎌谷|現代の卒業設計でも、作家性が強く出るものが評価される傾向はあると思うんですけど、対比的にそうでないものも浮き彫りになってきたと思います。
吉村|作家性を求めるのかそうではないか、その方法自体どっちが正しいとも思ってはいなくて、最終的にできたモノを通してどれだけのことが伝えられるかという方が大切だと思う。作家性に閉じながらたくさんのことを伝えている例もあるしね。手法の問題が大きく取りざたされるようになっているけど、閉じることでうまくいかなくなった時に、その壁を破る方法として手法や話すと
いうことがあるくらいでいんじゃないかな。

fig1:卒業設計/ Office for Short Stay


「10 年前の興味」
山道|塚本研一期生となるわけですが、当時塚本研に入ろうと思ったきっかけと当時の様子を教えてください。
吉村|自分が受けてきた教育との違いに純粋に新鮮味を感じたことが一番かな。当時は建築の理論と実践の問題が乖離していて、どちらかだけを語っていても面白くないなと思っていたところに、塚本先生が、あるデザインがどういう効果を生んで、どういう問題や議論に接続しているのかを具体的なところを消さずに説明していて、それが当時とても刺激的でしたね。
山道|修士では吉村さんは実作もつくっていますよね。
吉村|東工大の先生方もかなり若い時期に処女作をつくっていたので、自分も早く建ててみたいというのがありました。それに当時、研究室での設計も、法規から作り方まで、全部ゼロから自分たちで調べてやる様に仕組まれていて(笑)、それなら自分でもできてしまうんじゃないかという勘違いでもあって(笑)ちょうどその頃、留学行く直前だった兄を捕まえて、一緒にやらないかと話を持ちかけました。そこで久しぶりに話をすることになるんだけど(笑)そうするとやっぱり、建築の社会的意義から作家性に対する姿勢までありとあらゆる価値観が違っていて、それはそれでいい経験でした。
宮城島|ダブルテンポ[fig.2] は、条件に対してどう考えるかということがよく表れていると思うのですが、そのやり方は、そのような価値観の違いがあるなかで共有する仕組みでもあったんですか?
吉村|共有するかどうかはあまり問題じゃなくて、考え方は違うという前提だったから、言葉ではなく、モノでお互いが納得する瞬間を目指していました。大雑把に言うと兄が内部から、僕が外部から建物のカタチを決めようとしていて、什器の寸法体形と自動車の寸法体形が斜め45°に振るとちょうどあうと気づいた瞬間に、うまくあのカタチができて、お互いに納得した。この建物は条
件の取り扱いとか、当時考えていたことが割とピュアに表れていると思うんだけど、実際には条件の定義だけでは埋められないところがあって、今はそこに建築の建築らしさがあると思うようになってきたので、そこをもっと追求したいと思っています。

fig2:ダブルテンポ(設計 : SUPER-OS)


「実践的素振と理論的打席」
鎌谷| SUPER-OS の時は理論と実践と言った場合に、実践を通してお互いの共通項を見出して設計していくスタンスだったと思うんですが、それに対して現在のスタンスを教えていただけますか。
吉村|はっきりその二つは分けられないと思うけどね。ベクトルの向きからすると実践から理論へだと思います。というのは僕の場合は、何かを一旦つくればそこに入ってみた気になって、作るときに想像していなかったことを発見する。そのプロセスが結構重要な気がしていて、自分のつくったルールから離れていくものは何なのか、ということに興味があります。だから常に今でもたくさんアイデアを出してはつくり、それに対するジャッジをたくさんする。もしかしたら10年後には頭だけですべてわかるようになっているのかもしれないけど、今はもう素振りのようなもので、一日何本でも素振りをして、今の素振りは良かった、違う空気との感触があった、みたいな発見をしています。体育会系だからかもしれないんだけど(笑)常に動かしていくなかでつくっていき
たいと思っています。ただジャッジするのには打席に立つことが必要なので、どこで素振りをやめるか、球を読んでどうあててどこに飛ばすのか飛距離を読んでゲームの流れを作るのかを決めるのが理論なんじゃないかな。このループがないと素振りが一人歩きしてしまう。

fig3:西光寺本堂(設計 : SUPER-OS)


「土としての東工大
宮城島|東工大の教育や、その中での卒業設計というものをどう位置づけていますか?
吉村|今は教える側なので、東工大の教育はいいと思っていますよ(笑)。卒業設計は、先生達が何を評価するのかの価値基準が顕在化されるようになると良いと思うんだけど、今は学生の方が評価されることに価値を置きすぎているから、先生たちの価値基準は問題にされなくなっている。目標はあの人たちを焦らせることではないかと。僕の時はこういうことをやる先生なんて東工大にいないだろうと思いつつも、あの人たちが評価するのだから、そこに投げかけて、彼らが自分の作品にどう反応するのかを聞きたいと思っていました。だからもう少し素直に、何かを知るために卒業設計をやってもいいと思う。ただ東工大には伝統的に培われてきた文脈があって、それをどう受け継ぎ、どう伝え、その中で自分は何をするのかを考えられる軸があるというのは非常に幸せなことだと思いますね。教える側としては、半分は伝えられてきたことを、もう半分はそれに対して自分はどう考えているのかということを伝えていこうと思っています。誰かの教えをただ伝えるのではなく、そこに自分の価値感を投影して、またそれに対して批評を受ける。そういう場は今のところ東工大にしか無さそうなので、これはいい土壌だね。みんなは種のようなものなので、そこから距離を取ろうと、土を毛嫌いする必要はなくて、いい土でどう伸びるかを考えてすくすく育てばいいんじゃないか。僕は養分として何かを加えてあげられればいいと思っています。


「教育というメディア」
坂根|今後の展望を教えてください。
吉村|早く研究室は持ちたいですね。坂本研究室のOBで教育関係の方の集いに飛び入り参加する機会があって、そこで気付いたんだけど、まずは坂本先生に直接教えを受けた人たちがたくさんいて、さらにその人たちの教え子がたくさんいる。その孫世代である僕らのさらに教え子がいれば、もうねずみ講のように、世の中は教え子だらけになる(笑)大学は刹那的な流行をいきなり作れたりはしないけど、非常にゆったりと、多くのことを伝えられるメディアだと考えれば、初速は遅いけど50年後にはかなりの多数派になっているというのは非常におもしろいと思います。それは雑誌に載って何部売れるとか言うのとは違う世界。こうやって、自分の中での教えることの価値が分かってきたので、早く研究室を持ってたくさんのことを伝えていきたいですね。研究室を持つのと並行して、作品もたくさんつくりたいですね。僕の場合、つくるって事がないと自分の思考の仕組みが作れない。だからやっぱり何かをこう常に素振りしながら、やっていきたいなと思っています。

fig4:インタビュー風景(事務所にて)