vol.25 建築家 藤村龍至


Fujimura Ryuji
1976 東京生まれ
2000 東京工業大学工学部社会工学科卒業
2002 東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了
2002-2003 ベルラーへ・インスティチュート(オランダ)
2002-2005 ISSHO 建築設計事務所共同主宰
2003-2008 東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程
2005 藤村龍至建築設計事務所設立
   東京理科大学首都大学東京日本女子大学非常勤講師

2009年度、東工大卒業設計展に際して、発行しましたフリーペーパーのインタビュー記事となります。

なお、藤村さん率いるTEAM ROUNDABOUTは来る2010年2月6日にイベント『LIVE ROUNDABOUT JOURNAL 2010』を開催します。
僕らg86も当日の議論を収録するフリーペーパーのライブ編集へ駆けつけます!
歴史的な瞬間を目の当たりにしましょう!


「時代を語る建築の理論をつくる」

聞き手:鎌谷潤(g86),山道拓人(g86),坂根みなほ(g86),乾谷翔


社会工学部時代」
山道|藤村さんは学部が社会工学科で、大学院から建築学科に入りましたが、社工当時の建築に対する考えなどから聞かせて頂けますか。
藤村|僕はもともと都市計画に興味があって社会工学科に入りました。神戸の「ポートアイランド」っていう人工島を知ってますか?昔、「山、海に行く」と言われて、山を造成してトンネルを掘ってベルトコンベアで土砂を運んで、そこからタンカーに積んでそのまま海を埋め立てて、港の開発と山の開発を一気にやってしまう、それで終わった後そのトンネルを下水道に使うという一石三鳥な方法が実行されたんですけど、それを考案したという当時の神戸市長の原口忠次郎さんは工学博士でもあったそうです。その話を聞いて、自分がニュータウンの開発の風景の中で育ったこともあり、工学と政治に対する興味から都市計画について考えたいと思い始めました。建築と社工の違いについては丹下健三さんも都市工学科の教授だったし、あまり深く考えていませんでしたが、最近になって建築学を学ぶ前に社会工学を学んでいたことの意味を実感するようになりました。4 年生になって所属した土肥真人さんの研究室ではまちづくりのワークショップ等を行っていて、マクロな計画というよりは、コミュニティのデザインやマネージメントに問題が移っていました。模造紙の上に参加者の意見を記したポストイットを貼り、KJ 法でそれらを構造化して合意形成をはかっていく。具体的なコミュニケーションの技術を駆使して空気をほぐしていくと議論がポジティブで生産的な雰囲気にドラスティックに変わっていく、そのダイナミズムを感じていました。そういった政治的なプロセスとしての空間に興味がわきました。他方で、そのプロセス自体は方法論的なのに、そこから出てくる空間のイメージというのが凡庸だとも感じて、効率も悪いし、固
有性もない。いろいろ疑問を口にしているうちに土肥さんから「もういいからおまえは建築に行け」と半ば追い出され、塚本研究室に大学院から入ることになりました。


修士制作について」
山道|修士制作のファイルを見て面白かったのが、社会的アドレスと物理的アドレスということをおっしゃっていて、そういう見えない居場所と物理的な居場所ということを当時から言われていて、そういう議論は当時はなかったと思うんですけど。
藤村|いや、むしろ90 年代は情報空間と物理空間の関係についての議論は盛んだったですね。ただ、そういうことにも関心はあったけれど、塚本研のM1 ってゼミも無いし、仕事ばかりでアウトプットの場所が無いんですね。それですごいフラストレーションが溜まっているときに、「ネット」という場所を見つけました。
一同|笑
藤村|全然違う建築以外の人とつながりを作って、議論し始めると塚本研でやっていることも整理されて、とても面白かったんですね。M2 になって、研究室の仕事にも慣れて来た頃、TNprobe の連続レクチャーシリーズがあって、ヘアート・ローフィンクというアクティビストのレクチャーを聞きました。彼が問題提起していた
「ネットの環境で公共空間が出来るか」というテーマに刺激を受けて、帰ってきてその日の夜に新しいサイトを立ち上げ、翌日のゼミで発表しました。
鎌谷|それはいつですか。
藤村| 2001 年の5 月。9.11 の直前で、かつその直後に大阪の池田小で児童殺傷事件があったこともあり、塚本先生に「これからの公共空間を考えるなら、小学校を考えたらどうか」と言って頂いて、現代的な公共空間のモデルとして、小学校について考え始めました。

fig.1 修士設計/パブリック・スクール・ブロジェクト


それで小嶋さんや山本理顕さん、工藤和美さんのような小学校を設計されている建築家の方々にインタビューをして、それをネットに公開するようになったんです。それを五十嵐太郎さんが拾ってリンクして下さったりするようになって、徐々に反響が広がっていきました。そうやってインプットとアウトプットを続けながら、小学校のスタディを始めて、情報空間と実空間の関係をその時はずっと考えていたのですが、ある日スーパーに行ったら、あれ、これは二層なのではと。笑
一同|笑
藤村|下が、商品の陳列された棚で、上がサイン。3次元だと思っていた空間が、2次元と4次元に分節されているのではと気がつきました。それを塚本先生に話したら、興味を持ってくれて、色々白熱した議論になったりしたんだけど、結局は建築をうまく作れなくて、仙田満先生も「切り口はいいんだけど、もうちょっと建築的なディテールがあればね」とおっしゃっていました。
山道|今、つくるプロセスとして検索段階、比較段階といったように構造化されてますが、修士制作当時はどうでしたか。
藤村|同級生の人に最近の論考等を見せると、「まだ同じことやってる!」と言われることもあります。修士制作のときは毎週ゼミがあるから、そのペースで毎回1 個ずつ模型を順番に作っていて、その履歴をそのまま最終的にもプレゼしたんですが、最後に「修士制作でプロセスを見せるというのは悪くない」って塚本先生がおっしゃって, 自分なりに何かをつかんだ気がしたんですよ
ね。


「オランダ留学後」
鎌谷|修士が終わって、オランダ留学をした後の話をお聞かせください。
藤村|留学前に興味があったのは、情報と空間の関係とそれが身体にどう関わるかっていうこと。だけど、ベルラーへ・インスティテュート(オランダ)に行ったら、当時EU が出来て社会全体が流動的になっているなかで、「ビルバオ・グッゲンハイム」の成功に刺激されて、地域のアイデンティティを復活するために建築の文化的な力をどう使うかという議論が盛んになされていました。社会工学科のときの卒業論文で調べていたことに近くて、とても刺激的でした。ただ、それらの議論は、最初は面白かったんだけど、だんだんパタンが読めてきて、結局政治の話ばかりしていることに気付いて、1 年後に日本に帰ってきました。でも帰ってきたら帰ってきたで相変わらず「見える/見えない」とか、「重い/軽い」とか、身の回りのことばかり話している。本当は、身の回りの身体性と政治性をつなぐものが「建築」だと思うんですけどね。


「設計と理論をどう繋ぐか」
山道|帰国後はどうされましたか。
藤村|帰国後に塚本研の博士課程に戻り、研究室では「伴山人家プロジェクト」という中国の天津の郊外に別荘地をつくる計画の担当をしていました。設計期間が長かったこともあり、塚本先生はとにかく無数というか永遠にスタディを続けるわけですよ。そこで鍛えられて、かつそれまでの反動がぎゅっと凝縮したのが初めて個人で受けた「UTSUWA」という店舗設計のプロジェクト。完全
にロジカルに、無駄無く作っていったら修士設計の頃の調子が出てきて、徐々に展開していきました。設計と論理をどう繋ぐかということは塚本先生に習ったことで、今の自分は、過剰に説明的だった30 代前半の頃の塚本先生をロールモデルにしているところがあります。それに、もともと都市計画への興味から入ったので、窓辺でご飯を食べることとか、それまでは考えた事もなかったけれど、少しはそういう身体的な想像も多少はできるようになったので、その部分は塚本先生に教わったおかげだと思っています。

fig.2 Building K の設計プロセス


「教育の現場で」 
鎌谷|教育の現場に携わっていることが多くなって、思うことを聞かせて下さい。
藤村|僕は大学院から建築を学んだので、最初は全然図面が引けませんでした。でも、わからないなりに研究室の作業に参加していくうちに、だんだん建築家特有の思考方法とか、作業方法を客観的に理解できるようになりました。だから設計が出来ない子の気持ちも、感覚的に設計をやる人の気持ちもよくわかる。その経験を踏まえ、マニュアル化したのが「超線形設計プロセス論」という方法論です。首都大や理科大日本女子大等の授業で展開しているのですが、落ちこぼれを出さずに建築的な思考のイメージを身につけるにはどうすればいいか、学生と一緒に試行錯誤しています。


「昨今の卒業設計」
鎌谷|昨今の卒業設計についてどう思われますか。
藤村|かなり演劇的になってきて、役者が出て来ていると思いますが、この時代にしてこの卒業設計ありきみたいに、今の社会状況を正確に反映した作品は、まだまだ少ないと思っています。1990 年代以降の社会問題としては「情報化」と「郊外化」という二大コンテクストがある。それをちゃんと繋いだ人っていうのはまだあまりいない。それに、そういうことをちゃんと評価する人もあまりいないように思えます。どちらかというと、見た目のインパクトをがむしゃらに押すみたいな流れがあると思います。「日本一決定戦」は特に演劇的になっていますが、それは実際の建築ジャーナリズムも構造として似たようなものなので、そこで勝負して、自分の攻め方を学ぶことも必要でしょう。
山道|大学を出ると東工大の代表として意見を求められる瞬間がたくさんあると以前仰っていたと思うのですが、そういう場面で語るときの東工大建築に対する認識についてお聞かせください。
藤村|建築を建築の言葉で考えるところが良かったと思います。今は建築家が建築家固有の言葉を失っているように思うので、東工大の環境は救いだと思います。ただ他方で、論理的な純粋性にこだわらずにもう少し自由にやってもいいのかな、と大学を出てから思うようになりました。


「時代を語る建築の理論を作る」
鎌谷|藤村さんのこれからの展開をお聞かせください。
藤村|まずは時代を語る建築の理論を作っていくのが目標です。先日の『思想地図 vol.3』の論文で理論である「批判的工学主義」から方法論である「超線形プロセス」に至る大枠のストーリーはできてきたと思うので、まずそこからまとめて行きたいと思っています。まずこのストーリーを固めて、その後はそれをメディアのレイヤーで展開していき、いつかは教育や政治のレイヤーで活かしていきたいと思っています。
一同|ありがとうございました。

インタビュー風景(事務所にて)