vol.12 システムアーティスト 安斎利洋氏

g862008-07-03

今回はシステムアーティストとして活躍してらっしゃる安斎利洋氏のインタビューです。

安斎氏の手がけてきた作品を通して、「偽装と合理」「対立からネットワークへ」等々非常に刺激的で
興味深いお話をお聴きすることができました。


profile
安斎利洋(http://www.renga.com/anzai/)

1956年東京生まれ。システムアーティスト。
「MANDELNET」(1986)「てれめちえ」(1991)「連画」(1992-)などのネットワークプロジェクト、Ramblers 1993 など、セルオートマトン等を応用した数理的な作品、SuperTableau 1986, Tabula Pixema 2004などの創作装置、いずれも作動し続ける複雑なシステムを作ることに、一貫した関心をもっている。

inteview内容

「カンブリアン/偽装と合理」

g86─今日はご多忙の中、私たちのインタビュー活動に快く協力して下さりありがとうございます。今回は安斎さんが現在、主に行っている「カンブリアンゲーム」等のネットワークプロジェクトを中心にお話を聞かせていただけますでしょうか。

安斎─わかりました。カンブリアンゲームをお見せする前に、この画像を見てもらいたいんですが。今いるところはこの辺り。ぼくが生まれたのはこの辺り。たとえばこれは皇居。ここに不忍池があって、ここが東大の三四郎池。これは飛行機を使ってレーザーで計った標高データを、単純に濃淡に置き換えた画像です。建物の凸凹はならして、地面の高さを推定したデータを、国土地理院で出している。
 「墨流し東京」

鎌谷─じゃあ皇居が東京の端っこだったという。

安斎─もし海だったならぎりぎり海岸線。

鎌谷─その黒いところが沖積層

安斎─そう。なぜこれを作ったかということなんですが、自転車に乗っていると標高差がとても気になる。それで東京の凹凸が分かるような地図を、多摩美の堀内さんという人が中心になってつくって、朝日新聞の折り込みで配ったんですね(東京自転車グリーンマップ)。僕も自転車が好きでよく乗るんですけれども、例えば目白と高田馬場の間のものすごい坂を意識して、なるべく坂を避けて楽に行くにはどうしたらいいのか考えます。そうするとまっすぐ行くより迂回して行ったりしますよね。そういうことが分かってしまうんですね。自転車マップはいかにも自然にやさしい表現なんですが、もっと劇的に地面を分かりたいと思って、自分でこの画像を作ってみた。中沢新一も同じ関心から出発した本を出していますね。実は東京っていうのはものすごいテクスチャーの上に張り付いているんですね。
 あとで説明するカンブリアンの話に繋がるわけですが、散歩をテーマにしたカンブリアンゲームのセッションを最近やりました。日常の空間を対象にしたんですが、そこにあるのはやはりテクスチャー。僕らはどこに行っても同じフランチャイズの店や、改札の中の閉じたシステムであるエキナカのような整一な空間の中で暮らしているけれど、カンブリアンゲームという課題のもとにカメラを持ち歩くだけで、いきなりテクスチャーが見えてくるんです。違うものとして街がよみがえってくる。

鎌谷─僕は姫路出身なんですが、そういうテクスチャーなどに対する街への「気づき」という発見的な感覚は、僕は姫路ではほとんど感じた事がないんです。あくまで主観的な感覚なのですが。

小林─札幌の場合は地下鉄があるんですが、地下鉄のレベルは基本的に変わらなくて、土地が低くなっている場所は地下鉄でも外に出てくるので、山手線のような感覚はなく、起伏は地下鉄でも認知可能ですね。

山道─僕は東京で生まれたのですが、逆に旅行とかで地方とかを回って戻ってくると、東京はすごく、覆われていると感じる事がありますね。コンクリートなどに。地形としてはすごく面白いと感じていて、僕の高校は新大久保にあるんですが、目白や高田馬場は実際すごい高低差があって、歩いて街に出てわかることが多いですね。電車からではわからないかもしれませんね。

鎌谷─東京は、ものの情報量と同時に地形の情報量が多いため、姫路などの地方都市と比べて「気づき」はすごく多いですね。

安斎─ある複雑さを東京は持っているよね。にもかかわらず、僕は東京は嫌なんだよね。面白いところは面白いんだけど、さっきも言った様にどんどん退屈になっている。

鎌谷─下北沢にも補助16号線がひかれるらしく、下北沢のキメの細かなテクスチャーのある雑多に形成される商業店舗なども排除されて整備されていくみたいです。

安斎─ひとつのヒエラルキーの中に押し込めようとするとそういうことになっちゃう。最近偽装問題ってあったでしょ。偽装の対局にあるのは正しい事でしょ。正しい事を目指す空気と退屈な東京はすごく似ている気がする。公園はきれいに、というのは、偽装のない街を作ろうということ。でも面白い街って偽装じゃないですか。ギャップもあるし、色々な環境との矛盾もある。それをどんどん埋めようとしている力が、現在飽和状態になりつつある。


「連画/フローの中での同時多発的パラダイム

安斎─カンブリアンゲームは、「連画」(中村理恵子とのコラボレーション)という一種の連想ゲームをもとに発展した様式なんですが、線形じゃなく分岐するネットワークになっていて、この様にそれぞれのリーフ(画像)が、互いにどんどん結びついていくんです。ひとつから多数に分岐するハブもあらわれたりします。「SANPO」は、連衆(メンバー)が街を歩いていて発見したものを写真に撮って、この樹状のネットに投稿しました。大人は外の世界を一瞥で把握しますが、赤ん坊ははじめて見る世界を真剣に読み取ろうとするでしょ。SANPOに参加すると、まるで赤ん坊と同じ様に、世界の隅々まで解釈しないと歩けなくなる。だから普通10分で到着するところが何時間もかかってしまう。あるゆるものを、日常と違う形として見ようとしはじめます。
 「SANPO
鎌谷─藤森照信さんという方が、路上観察学会で、こういうことをされていましたけど、これはそこでの観察と定着の仕方を非線形的なネットワーク系で体系化している。

安斎─そう。不思議なのは、この接続していく作業をカンブリアンの中ですると、一人で観察するのとは違うことが起こる。僕らの関心は、路上ではなくて人と人の作用です。これは品川の駅にある旅行用のパンフレット。これに「餌を待っている雛」というタイトルがつけられている。すると、パワーショベルが親鳥になったり、マンホールを目にした鳥の横顔が、ほかの人から出てくる。そして一気に、いろいろなものが「鳥として」見られた写真が結びつく。

 「鳥のパラダイム
今ここから駅まで行く時に、全てのものは駅に行くっていう目的のもとに、ある安定した見え方をする。つまりアフォーダンスが立ち上がるわけです。ただ僕は、アフォーダンスには疑問がある。あるひとつの正常な目的をもち、正常に適応して生きることを前提にしている。アフォードは環境がしてくれるわけじゃなくて、本来1時間かかる駅までの道程を効率よく目をつぶっても行ける様になるために、僕たちの中に作られたショートカットが働くわけです。だけど、ここではそういうことを全てやめよう、というルールなんですよ。普通に見るのをやめようという約束をするだけで、いきなりこういう厄介な世界が見えてくる。
面白いのは、一人が見た鳥に、なんでも鳥に見える見方がつながること。僕らは日常的な世界をものすごく社会的に見ているんだけど、非日常的な見え方も社会的な引力としてあらわれるんです。しかも並列に同時多発的に起こる。樹状のネットワークのあちこちに、色々なパラダイムが生まれて、お互いがお互いとゆるくつながっているという状況が生まれる。
カンブリアンゲームでは、多義的に枝分かれするのが大きな意味をもっていて、非常に強力なひとつのモードに引っ張られてしまっても、必ずそこから抜け出そうとする力がはたらく。他のものに見てやろうとする。すると、ここには無数の可能な物語が含まれることになる。

小林─こういうものができてくると、自然にハブになる様なものになる写真はできてきますか。

安斎─これをやっていると、だんだん自分がハブになりたいと思うようになってきます。笑

一同─笑

安斎─みんなねらうんですよ。でもそういうのは絶対うまくいかない。そういうのを「種狙い」って呼んでいるんですが、みんな種になりたいって。笑 でも実際は何の意図も下心もない「なんでこれが?」っていうのがハブになったりする。特に子供にやらせると、強力な中心が生まれやすいですね。

鎌谷─つなげ方にルールはないんですか。

安斎─ない。連想してもいいし、意味をつなげてもいいし、一部を継承してもいい。でも時々接続の理由が理解できないものが出てくる。説明はできないけれど、なんかこのつながりはわかっちゃうという神話的接続もあらわれる。そういうのはすごく嬉しいね。

安斎─これは、人ね。その次にくるのが、カメラ。球面のレンズ。その次が素晴らしいんだけど、魚になるんです。なんだかわかる?
 「目のパラダイム
一同─・・・

鎌谷─目。

安斎─そう。魚の群れがあるけどそこにある無数の目とつながっている。そうすると、ただの魚の写真が、目が無数にある写真に見えてくる。そして次は、これ。渋谷の交差点。そうするとこの人たちが、みんな目をもって歩いているという風にみえるでしょ。こういうふうにフローの中で意味が生成されていくんです。

山道─一枚の写真だと、色々な意味で読み取られてしまうけど、つながりが生まれてくると、独特のコンテクストみたいなものが後から生まれてきたりしますよね。

安斎─これからの課題は、そういうコンテクストをどう語るかということです。語り方は色々あるし、このグラフ構造自体を示すことはできる。でもどこかで、別なメタな言葉にしておかないと、自分が何をやっているかわからなくなっちゃう。そういうことも考えているところです。


mixigraphとカンブリアン/無数の境界面が持つ可能性」

鎌谷─最近では、mixi graphでもありますし、youtubeでも最近ありますよね。

安斎─基本的にグラフ構造になっていかざるを得ないものというのは、そうなっていくでしょう。今まで、グラフをいかにリニアに表現するか、物語として話すかということに価値があったんだけども、グラフをグラフとしてみせる、回路図の様に見せるというひとつの流れがあるよね。僕らが連画でグラフ構造をはじめたのが1994年の「二の橋連画」で、その頃からやってきたんだけど、だんだんみんな気がついてきた。だから、僕らはどこに逃げようかと。笑
ひとつ思っている逃げ先は、ここで分岐してるのは、単に類似したものを挙げているんじゃないということ。メタファーもそうだけど、似たものをあげているのではなく、構造を写像している訳ですよね。そこを、これからのテーマとしたい。

鎌谷─これがmixigraphや、youtubeと違うのは、mixigraphはわかりやすい一義的な変数があるけど、これは変数が非常に複雑ですね。計算不可能というか。

安斎─そうだよね。例えばamazonのレコメンドみたいなのは、あの世界の中で距離を測っているんですよね。

鎌谷─ただそこでは一つだけのモードができちゃう。

安斎─そう。パラダイムが形成されて、ひとつのパラダイムに収斂していこうとする。それはエキナカに買い物に行くような、テクスチャーを排除してひとつの環境内に閉じた世界を整然と作ろうということになると思う。そこが工学的な問題の核心だと思うんだよね。今のシステム科学というのは、簡単に言うと「時間」がないんです。A=A+1という数式は時間が発生しているんです。でもそれは成り立たないという世界、「時間」の無い世界で考えると、例えば一つの文章というのは生成文法で、はっきりしたヒエラルキーでみえてくる。そういう価値観の中で計算可能なものを見つけてきている。そうすると、amazonのようなこともできるしmixi graphのようなものもできる。だけど実は変な事が一杯起こっているはずです、テクスチャーがたくさんある世界ではね。生成的なもの、新しいものが生まれてくるものは、必ず違うものがぶつかる切断面がある。まさに境界のところに生まれる。そういう境界のないところには、その中のロジックでしかものを生まない。意味論が違う系がぶつかると、新しいものを必ず生むんです。そこに手が届いていないものが、システム科学を称して未来をデザインしているのが非常に怖い。
偽装の問題にしても、偽装の反対にある正しさをみんなが求めてしまうと、非常に強固な正しさを求める空気が、大きなクラスターの中にとどまってしまう。そういうのを壊して、境界が生まれるようなネットワークが作れないか、というのが僕のテーマです。
意味論のつながらない系がつながったような、セマンティックが繋がらないウェブみたいなもの。進化の過程を見ていると、全部そうなんだよね。例えば、花があって虫がいる。花のシステムと虫のシステムは違う。花にとっては虫は害虫。全部養分を吸い取っちゃうけしからん奴。花が進化していく過程で、虫が飛んできて花粉を付けるという事が自分たちのメリットでありうることに、ある時気がつくわけ。そうすると花は虫に花粉をつけやすいように進化していく。もし虫に「害虫」というラベリングしてしまったら、終わってしまう。意味論がそこで閉じてしまう。今の世界というのは、害虫は害虫として閉じているから、そこに花粉を付ける方法がないんですよ。僕らがやっているカンブリアンゲームというのは、違うモードが並列していてそれが接続可能なんで、そこに無数の境界面ができてくる。そこに花粉の可能性がある。そこを見せるような工学的な方法はたくさんあって、そういうシステム科学はあり得ると思う。意味論の違うもの同士が新たな意味を生成する科学というのは見つけ得ると思う。カンブリアンをその糸口にしたい。

鎌谷─非常に興味深いですね。僕はカンブリアンゲームをはじめて見た時、mixi graphと同じような構造を持つものだと見ていたんですが、今日お話を聞いて,それとは決定的に違うことに気づかされました。カンブリアンでは、それぞれの取るに足らないか弱い要素要素が様々な共通項を見出して繋がっていて、そこで生成されたグラフは一見一つのモードで生成されたもののように見えるけど、本当は同時並列的に様々なモードがそこここに生まれては淘汰され消え、また新しいモードが生まれている。そうやってパラダイムが随時、同時並列的に更新されていっている状態だと思います。そういう状態はmixigraphのようにただマイミクとの関わりの変数を一義的に設定し、そこで生まれたグラフ構造をただ可視化した状態とはまったく違う、生命体のような複雑さとダイナミクスを感じました。

安斎─そう感じてもらえるとすごく嬉しいし、この年代に君たちのような人たちがいるというのは明るいと思うね。ある年齢に達すると、強いモードに自分自身が入ってしまうので、同年代とは話したくないなと。笑

山道─今、石原都知事の都市計画で緑地を東京に増やそうとしていると同時に、クラブとかそういったものを害虫としてみていて、それを排除して均質化しようとしていますが、それと今の話は共振すると思いました。

安斎─そうだね。政治というのは1つの大きなモードだから、大道芸人に許可を与えるとかそういう発想になるよね。あれは害虫を取り込んでいる様に見えるけども、そこには境界はないんだよね。境界が生まれるとはどういうことかということを、制度設計や社会工学がもっと考える必要があるよね。


マチスましーん/ブリコラージュ」

 「マチスましーん」
安斎─これは子供たちにやらせた「マチスましーん」というもので、動き方が面白くて

一同─おー!

安斎─樹が揺れるのが楽しくて、少しずつ成長している、育てているという意識を共有しながらワークショップをやるんです。「マチスましーん」というワークショップは切り絵を素材にしています。子供が作った切り絵は、スキャナでデータにしてカンブリアンの樹に投稿する。スキャンし終わった切り絵は、プールに溜めておいて、別の人がそれを切ったり貼ったりして再利用してもいいですよ、というルール。物理的に再利用が生まれると、樹の構造とは別の循環が生まれます。例えば、卵が音符の一部になったり、鳥がキリンの耳になったり。

一同─笑

安斎─この樹の形を投影したスクリーンをワークショップの中心において、動かしながらやると、ときどき木の形が変わっちゃったりする。

一同─おぉすごい笑

安斎─単純に、枝が交差したら解消しなさい、というルールを覚えさせただけ。それで自然にこうやって、きれいな形に落ち着きます。もちろん、木でないグラフは、永遠に動いてしまいますが。
マチスましーん」は、子供達をものすごく熱中させるんですね。ここで起こっているのも“境界”の生成。ひとつのキーワードになるのは“ブリコラージュ”なんです。いろんなものが並列に並んでいて、組み合わせることによってなんでも作れてしまう。なにか新しいものは、たいていブリコラージュから生まれる。新しいものを生み出すために、いかに多くの境界を作るかということを考えたとき、一つの人間的な解決の方法はブリコラージュの環境をどうやって作るか、ということ。情報的な空間にしても、設計の現場にしても、あるいは政治の世界にしても、ブリコラージュが無くなってくるとだんだんダメになってしまう。道具は道具、素材は素材というように、合目的な階層性の中でしか考えられなくなってしまう。

坂根─カンブリアンゲームは、先入観が無く想像力がある子どもにとっても凄いツールですね。

安斎─先入観というのは、結局リンクの轍、車が通ったあとの溝みたいなものですよね。轍があると、いつもそこを通ってしまうんだよね。考え方もそこへ行ってしまう。カンブリアンは、まだ通ってない道を見つけてくれるシステムです。本当は気がつかないといけない連想があると思うんですが、それをバックアップしたい。生まれてきたばっかりの子供の脳のようなやり方を考えてみたい。


「ロッカーの中の宇宙人/予測不可能性」

鎌谷─そういう科学的な「気付き」がコンピューターで出来れば、その時はAIも実現できるんでしょうか?幾分時代遅れ感がありますが笑

安斎─「意識が作れるか」という話になるとそれは一つ向こうのテーマになるけれど、ただ、当然カンブリアンのような構造にしないと意識は生まれないと思う。かつてAIというと時間の発生しない論理学が趨勢でした。自然言語にしてもチョムスキー的な考え方。認知言語学的な、もっと時間が生まれてくるような、ネットワーク的なアプローチをとれば、ものすごく人間の脳に親和性の高いツールが、まず作れるだろうね。

鎌谷─正常な時はアフォーダンスは正常に作動している。アフォーダンス主義者の人達はAIはアフォーダンスでこれからどんどん展開していくと唱えてらっしゃいますが。しかしそれはやはり一つのモードでしか作り上げられていかないから、そこに生命の複雑なダイナミズムは宿るのかと疑問に思ってしまいます。

安斎─アフォーダンスも一つの糸口だと思うけど、そこの中に閉じこもっているとダメなんでしょうね。オートポイエーシスも複数のものが現われて相互作用し始めるとどうやっていいかわかんなくなっちゃうというようなことがありますよね。そこを解決する新しい灯りが必要なんですよ。そういう科学が生まれなくてはならない。それがまず見えてないってことが皆見えなくてはならない笑。

一同─笑。

安斎─そこを目指さないとダメなんでしょうね。それは非常に難しい。自分がわかっていることというのをこの範囲だとして、分かってないことを考えなくてはいけないから、当然難しい。分かっていることというのは一つへ収斂していく。さっきも言ったけど環境を遮断してエキナカで買い物に行けるようにしたがるのは人間の習性だから、今の知識で分かることは分かることができる。今の知識が分かる範囲の外を、同時に分からなくてはいけない。分かんないでいながら、分かるという。わけ分かんないけど笑。

一同─爆笑

安斎─そこの方法論は非常に難しい。でもそこにしか活路が無い。そこに電球があるでしょう。その下に虫が溜まるんですよ。いつも思うんだけどなんであいつらは外に出られないのかと。一回入っちゃうとそこで死ぬ。そのメタファーは僕らなんですよ。なんであいつらあそこから出られないのかなと外から僕らを見てるやつがきっといるんですよ笑。

一同─ああなるほど笑

安斎─その人から見るととても僕らは馬鹿なんだよね。でも僕らは知らないから、そこで死ぬものだと思ってるから幸せに死ねるんですよ。そういう状況なんだよね。MIB2(メンインブラック2)という映画でひとつ好きなシーンがあります。ロッカーの中にたまたまレンタルビデオの会員証が置いてあって、そこに宇宙人の集団が住み着いているんだけど、会員証に書いてる文言を聖典にして宗教が生まれているんですよ。パっとあけるとそこで祭典が開かれているんですよ。一週間以内に返しましょうっていいながら笑。そこで地球人がロッカーを開けるんですね。彼らにしてみれば空が開いて顔がそこにあるわけですよ。僕らはそういう状況を考えなくてはならない。パッと空が開いてメタな生命が僕らを見ていることを考えなくてはならない。そうすると僕らはレンタルビデオの会員証を聖典にして生きている生物なんですよ笑。そういう考え方をするとおそらく外の世界のことを考え始める。わかってないことをやるっていうのはたぶんできる。僕らが日常的に経験するのは、あとになってみると自分はまるで気付いてたかのようにうまくやっていたことってないですか?その時は全然わかっていないのにやっていたことが全部目的にはまっていたみたいな。そういうわかってないのにうまくやれることを僕らはできる、たぶん。その方法論を確立すればおそらく今わかってないことをうまくできるようになる。

坂根─例えば私はコラージュを作るのが好きなんですけど雑誌の切り抜きとかでコラージュをしていって最初は最終的に出来るものを予測せずに作り始めるんですけど自分の好きなものとかこれは使えそうだというものをこれはここかもしれないとどんどんまとめていくと最終的にこんなものになるとは知らなかった!というぐらいいいものが生まれるという経験があるのですが、この方法もそれなんでしょうか。

安斎─そうそう。なんで起きちゃうんだろうか、不思議だよね。

坂根─不思議ですよね。

安斎─一つの考え方は「出来上がったところから見て全てがうまくいったように見えているにすぎない」という考え方もあるんだけど、どうもそれだけではない気がする。

鎌谷─有名な絵本作家で、まず何か描き始めるんですけど、それが何かに見えてしまうとそれに沿って描いてしまうから、そこから逃れようと、その葛藤の中で描いていく。

坂根─荒井良二さんですね。

安斎─そうですよね。みんな経験しているんだよね。共通しているのはとにかく手を動かし始めないとダメというか、何かやってみるとうまくいくということなのかな。何かそこに理論があるはずなんですよね。僕が考えてることを皆さんが大きく育ててくれるというプロセスが始まりましたね。

一同─爆笑

安斎─僕らのカンブリアンも、こういうことに結びついてくるってことは初めは分からずに始めているからやりながらこういうことだったんだって気付く。だから境界領域を作るということをより強調したシステムに変えていかないと、たぶん他のたくさんのシステムと一緒になってしまう危惧がある。


「展望/対立からネットワークへ」

鎌谷─安斎さんのこれからの展望をお聞かせ下さい。

安斎─一つはね、若い子といろいろやっていきたい。親父と付き合いたくない。

一同─爆笑

安斎─幾つかの大学で活動できる機会が今のところあるから、そういうのを上手く組織してワークショップ等を行っていきたいですね。大学が生成の場であり、発表の場であるようなスタイルをこれから作っていきたいなと思いますね。
今までアートの文脈でやってきたことを、何とか科学の文脈ですることによって科学を拡張するような方法を模索していきたいですね。最近ぼうっと見えるある領域が、全ての新しさの向くべき方向みたいなのが何となく見えるような気がするんです。哲学も単なる二項対立じゃなくて、ネットワークの網の目の中の世界というような所を目指すだろうし、工学も強固な論理的な構造物でないもっとネットワーク的なものを扱おうとするだろうし。そういう何か一つに統合できるような流れを目指したいなと思います。

g86─今日は本当に色々興味深いお話をして下さってありがとうございました。これからの思考の定点の一つとして安斎さんの思想は非常に有効ではないかと思います。
本当にありがとうございました。