vol.15 P3主宰 芹沢高志氏

g862008-10-19


今回は、P3主宰の芹沢高志さんへのインタビューです。
数学科を出てからP3を設立するまでの横断的な活動の経緯や、「アート=テクネー」など非常に興味深いお話をお聴きすることができました。

profile

芹沢高志 (http://www.p3.org/)

1951年、東京生まれ。神戸大学理学部数学科、横浜国立大学工学部建築学科を卒業し、民間のシンクタンク生態学的地域計画の研究に従事する。89年現代美術と環境に関わる制作機関として「P3」を開設し、国内外のアーティストの活動をプロデュースする。著書に『この惑星を遊動する』(岩波書店)、『月面からの眺め』(毎日新聞社)、訳書にK・ブラウワー『宇宙船とカヌー』(ちくま文庫)、B・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』(ちくま学芸文庫)、E・ヤンツ『自己組織化する宇宙』(工作舎)などがある。

interview

「学生時代の横断的な活動」

鎌谷|芹沢さんは、数学の分野から建築の分野に入り、シンクタンクで研究を続けた後、今では、様々なアーティストのプロデュース活動をされています。そういった、様々な分野を横断しながら活動の拠点を移してきた、その辺りのお話をまず、お聴きしたいと思います。

芹沢|いいですけど、やっぱり自分のことが一番分からない。こういう立場にたとうと明確に計画をたてて突き進んできた訳ではないから。そういう計画自体がたてられないのではないかと思うようになったのも自分の経験と重ね合わせてということが多いですね。

僕が生まれたのが1951年だからちょうど20世紀の真ん中。自分の10代は60年代と重なる。60年代後半〜っていうのは世界中がばたばたしていた。1970年に大阪万博があった。それでアメリカではテクノロジーとアートが結びつきはじめ、やっとビデオがでてきてそれを始めて芸術に利用してみようとか、出会いが起こっていた。69年に、代々木の体育館で、クロストーク/インターメディアっていうイベントがあったのね。それで当時僕は全然美術とか知ってるわけではないんだけど、たまたま行くんですよ。18くらいの時だったかな。そしたらそれがなんだか、今まで思っていた物事というか、とにかく見たこともない面白さみたいな衝撃を受けた。そのときカタログを買ったんだよね。そこにバックミンスター・フラーの論文が載っていた。


バックミンスター・フラー/ジオデシック・ドーム

それがものすごい長いんだよね。なんでフラーに関心を持ったかといえば、その論文ののっけから宇宙船地球号だのエントロピーだの、いわゆる理系の言葉がちりばめられてる。なんでそういう芸術のイベントのカタログにそういうのが載っているんだと。当時、理系の高校生だったんですが、理系にいてもそういうのに興味をもってしまっても悪いことじゃないんだっていうことに気がついて。英語だったんで、全然分からなかったんだけどね。笑

一同|笑

芹沢氏|その後、大学は神戸の数学科に行くんですよ。2,3年の時に「宇宙船地球号」の翻訳本が出て、あのバックミンスター・フラーか、と思ってそれを読んでみた。そしたら、日本語で読んでもよく分からないんだけど、引きつけられるものがあった。
フラーはそのころ生きていて、しかも70年代になると東京とアメリカとヨーロッパでいろいろなことがシンクロして起こっているから、自分の体験ともうっすら重なってリアリティが出てきて、「宇宙船地球号」の最後のところに、もう政治家も何もかも信じていては駄目だと、建築家とかプランナーは頑張れ、みたいなことが書いてあって。それで全くナイーブだと思うんだけど、それを読んでそうかあと思って。笑 それで僕の数学の恩師にこれからどっちにいこうかという話をしていて、その選択肢の一つとして、環境問題に対してアプローチしてみたいから建築にいけば数学的なことも役に立って、芸術的なことにも関与できて、今差し迫っている地球規模の問題にも関われるんじゃないかと、言ってみたら先生が建築家を紹介してやるといって、早稲田の吉阪さんを紹介されて。その先生の家を建てたのが吉阪さんだったんだけど。


吉阪隆正/浦邸(芹沢氏の恩師 浦太郎氏の邸宅)

g86|吉阪隆正さんですか!おおすごい!

芹沢氏|それで吉阪さんに会うために早稲田に話を聞きにいくんだよね。それがまた強烈な印象で、会いに行って、のっけから「今日駅前で第一勧銀が配っていたものをもらいましたか?」と言ってきて。どうやら第一勧銀が開店記念で配っていた袋に入っていたモビールの玩具の話らしくて、「これこそトボロジーだ」とか言って。笑 最後も「絶対袋をもらって帰りなさい」とかいって。笑

一同|爆笑

芹沢氏|話自体は「建築やりたいならやればいいじゃないですか、大学院に来なさい」と言われて。でもまずは基礎が必要だろうと思って、横浜国立大学に学士編入で入ったんだけど、その年に磯辺行久さんというアーティストが横国にやってきて、その人のレクチャーを聞いたんだ。

WORK62/磯部行久

WORK65/磯辺行久
彼はもう、美術から足を洗っていて、アメリカでの美術のコミュニティーの狭さに嫌気がさしたのか、ペンシルベニア大学のイアン・マックハーグのところでエコロジカルプランニングを習い直した。で、ちょうどそのころ日本は環境アセスメントを導入するのしないのといっていた時期で、その専門家として磯辺さんが日本に呼ばれて。それで彼が大学の研究室みたいな会社をつくってやり始めた頃だった。
そのレクチャーものっけから建築家の悪口というか、そんな彫刻みたいなものをつくってどうするみたいな話で、土地の潜在的な力を解析したうえで、適切な土地利用をしていくべきだということを延々とまくしたてた。で、聞いていたのはほとんど建築の学生や教授だったから、最後の質問の時も、言っていることは分かるがそれでは建築家としてやっていけないとかクライアントにどうする とかみんな総否定で。僕は結構共感したから最後に手を挙げて熱烈に弁護したら、レクチャーの後に誘われて、会社に遊びにこないかと言われたんだ。それで行ったら、僕と同世代の大学院生達が夜中まで一生懸命やってて、そのときにある研究で困ってるからちょっと手伝うことになった。そこから仲良くなって、みんなに手伝えといわれて次の日からずっとそこでバイトを始めていって、そのまま卒業後もそこにいた。あのとき一番働いたかな。笑


「P3設立」

芹沢氏|その当時、その会社で知り合った友人から、この近くなんだけど四谷四丁目に東長寺という禅寺があって、出来て400年経つから伽藍を新しくしたいんだけど、そこに加われといわれて。これで本当に人生を変えてしまうとは思わなかった。


東長寺

時代はバブルになりかけていた。伽藍を建てようとしているのを聞いて銀行とかディベロッパーとかがやって来ていろんなことを言う。面白かったのは、敷地は700坪なんだけど、それを売ってしまって、郊外へ行きなさいと。そうすると今の10倍くらいのお寺になるから、そこで霊園開発をやったらいいとか,法規制をとっぱらって20階建てのビルにしろ。ペントハウスに本堂を持ってきて下に5階分のロッカー式のお墓を入れて、その下はテナントに貸せって言う。墓の下に入るテナントなんていないだろうというと、いや、連れて来るという。確かにね、葬式には仕出し屋や花屋、霊柩車やらなんやら、とにかくいろんなものがいる。仏壇もいる。そんな会社を集めて、一大葬式ビルをつくると言うんだ。

一同|爆笑

芹沢氏|今思えばそれやっとけば、金になったかもしれないな。笑
とにかく、寺はこんな話に振り回されるがいやで,400年記念の事業事務局というものをつくって、自分たちの考えで事を進めようとした。この事務局が,お金をいかにつくって、それでどういう建築物をつくって、出来た後どういう風にしていくのかという事を総合的に考え,実行することになったんだ。僕はもう一人のパートナーと、ここで働く事になった。
その時住職が、こんな都会にあると,何のために寺院としてやっているのかわからなくなることもあるので、もう少し社会に開いた活動を考えてくれと言う。たまたま知っていたんだけど、ニューヨークで、ジャドソンメモリアルっていう教会が空いている地下の倉庫を解放したら、そこに若いダンサーたちが集まってきて、ここからポストモダンダンスの潮流が生まれた。
東長寺は学問寺から出発していたし、寺が文化とか医療とか福祉とかに機能を拡大しても歴史的な必然性はあるだろう。そういったもう少し社会に開いた機能を持たせてもいいのではないかと最初提案した。

ある会議の時に、そういうプランを発表して、まあいいかと賛同を得た。でも「つくるのはいいんだけど、一体誰がやるんだ」と。誰がやるとか、やるのは寺だろうと思ったけど、今までつきあってきて寺にそんなことをやっている暇がない事はわかっていた。寺は寺のことで忙しいわけだよ。そしたら、みんなが段々僕の方を見てくるわけだ。笑

g86|笑

芹沢氏|「俺!?」みたいな感じになってさ。で、結局、引き受けるんだ。その運営のための組織P3をお寺の中につくって、設計を始めた。
その時は本当にへんてこりんな感じだった。美術関係者も来るし、お坊さんも入ってくるし、現場監督もやってくる。あまりにアナーキーで、それがやめられなくなった。笑
なんでP3なんですか、と良く聞かれるけど、プレハブの3階にあったからなんだよね。笑

一同|爆笑

芹沢氏|誰かが、良く地下1階をB1と書くでしょ。シャレかわからないけど、“P-3”と略しても郵便とかが届く様になって、新しい伽藍ができたら、立派なオフィスになるのはわかる。でも今のプレハブは、冬はめちゃくちゃ寒いし、夏はめちゃくちゃ暑いし。はっきりいって無茶苦茶。このアナーキーな感覚だけは忘れないようにしたいと思って、名前をP3にした。本当に運がよかった。禅寺の下で現代美術をやってしまうという事が幸いしたね。

鎌谷|すごく面白い!美術をプロデュースする空間を備えた寺って日本では前例があるんですか?

芹沢氏|なかったと思う。お寺がそういう文化的なことをサポートしていくというのは、狙い目ではあると思った。

鎌谷|現代アートが地下に入っていて、上は過去を振り返る場所で、下は未来を見る場所と言う対立は面白いですね。

芹沢氏|オープニングでバックミンスター・フラーに関する展覧会をしようと、ワークショップ型の展覧会を開いた
観客とモデルをつくって良いものができたらそのまま展示に変えていくとかいうことを3ヶ月やっていったら、その時にインゴ・ギュンターがやってきた。話しをしていると、すこし前からワールド・プロセッサーという新しい作品に取り組み出したという。面白そうじゃん!ってなって、すぐにプレビューをやったんだ。そして,その1年後,本格的な展覧会を開いた。ものすごくきれいだったなあ。


バックミンスター・フラー展/インゴ・ギュンター「world processor

すると今度はそれを見に、中国の蔡國強が来た。

鎌谷|蔡國強!今じゃすごい人気アーティストじゃないですか!僕すごく好きです。

芹沢氏|本当にトップクラスのアーティストになっちゃったけど、今ちょうどニューヨークのグッケンハイムで個展をやってるね。当時やってきて、「私、火薬でアートしてます」と言う。火薬でアートって、また怪しげな中国人が来たと思った。笑
その後、ヨーロッパでの彼の作品を見てきたスタッフがすごいというから、じゃあ彼の展覧会を考えてみようかと思い、もう一度会うことになったんだけど、彼がP3のためにつくったプランを持ってきたときのことは、本当に忘れられないな。蛇腹式のノートをとり出して、まずそれを一冊見せる。そこには火薬で焦げ痕を作って、色々なことが書いてあった。 “big foot”というタイトルで、「国境をまたがせて、足跡型につくった火薬を導火線で結んでいって、火をつけて、目に見えない国境を目に見えない巨人が疾走して行くプロジェクトです」と言う。
また、一冊出してきて、万里の長城に狼煙台が一杯あるんだけど、「狼煙台を再現します!」とか言う。それが終わると今度は、「ベルリンの壁が壊れました。物理的な壁は壊れたけど、心の中の壁は本当に壊れたかわからない。もう一度、煙と炎でベルリンの壁を再現します!」とか「月の上に負のピラミッドつくります」とか、次々と5時間くらい。笑

g86|面白すぎる笑

芹沢氏|その時に蛇腹のノートがあまりに印象的だったから、それを大きくして、屏風みたいにして、インスタレーションにしようということになった。それが一年後の展覧会になったんだ。

蔡國強「原始火球 - The Project for Projects」

小さい方のギャラリーに寝泊まりして、インフレーションみたいにアイディアが浮かんでくるんだろう、会期中もどんどん新作をつくっては展示していく。その中の一枚に「万里の長城を一万メートル延長する」というのがあった。まあ,これは蛇腹のノートにもあったプロジェクトなんだけど、屏風にはしていなかった。
展覧会が終わったあと、これでさよならというのもいやだなと思った。そこまで親しくなってしまったんだよ。蔡さんが出したのはみんな計画図だったので、それを実現するというのは次の目標になるなと考えた。それで「何か出来たらやる?」という話になった。アジアのものの方が良いと思ったけど,狼煙台を再現するのはあまりに大変だろう。万里の長城を一万メートル延長するというのは、導火線引いて火をつければいいんだから、これ簡単かなと。笑

蔡國強「Project for Extraterrestrials No.10: 万里の長城を一万m延長する」

一同|笑

芹沢氏|そのころ中国は現代美術なんて存在しないと言う態度だったから、多分できないだろうと気楽な思いで、「蔡さん、これ一緒にやっていこうか」と言って一緒にリサーチをはじめた。それがまさか実現するとは思わなかったけど、調査で3回くらい死にそうになったな。笑 これは2年後に実現する事になった。
P3は状況が次々に展開して,巡り会いが続いていったという意味で運がよかったね

鎌谷|ジョン・ケージとかも、展覧会されていましたよね?

芹沢氏|ケージにはフラーの展覧会のカタログをつくるときにお会いしていた。それで,彼自身の展覧会もしたいなということになって、やるだけやってみるかということになって、手紙を書いたら、OKっていう返事が来た。「ホントかよ!」って感じだった。
そして会いにいったんだけど、以前よりずいぶんお年をめされた感じで、ニコニコしているだけ。こっちでアシスタントと話していると、こっくりこっくりしている。「もうケージも、疲れちゃったんだな」と思って、どうせ聞いていないだろうけど、こっちで数学とか哲学とかの話になった。するとね、自分の作品のときは寝ているのに、ぱっと起きて、猛然としゃべりだした。笑
元気だったらオープニングに来てくれると言っていたんだけど、展覧会をやる直前に、亡くなってしまった。何度も会えるような方ではなくても、本当に印象に残る人っているよね。友人になるとか、ごく親しくなるわけではないけど、心から尊敬できる人ってのはいる。。。


「不確定性から生まれる動的な秩序」

山道|先日インタビューをした、安斎さんという方がいらっしゃって、エリッヒ・ヤンツの『自己組織化する宇宙』を芹沢さんが訳されて、偶然その人が表紙を描いていて、運命を感じたんですけど、数学科を出られて建築学科に行かれて、自己組織化や散逸構造等、そういった思想が芹沢さんの中にあるのかと思ったのですが、そのあたりのお話をお聞きできますか?


『自己組織化する宇宙―自然・生命・社会の創発的パラダイム』著:エリッヒヤンツ/翻訳:芹沢高志、内田美恵

芹沢氏|環境関係のシンクタンクで勤めていたことは言ったけど、その時に、「計画」というものに懐疑心を持っていたんです。三十年後に一つのゴールを定めて,そこへまっしぐら。まわりの状況や環境がどのように変わろうとそのようなものに聞く耳をもったらだめで、ゴールを実現させるために一直線にやる。そんなやりかた、そんな硬直したやり方というのは本当にいいのだろうか。そういうことを、現実にエコロジカルプランニングの仕事をしていくと結構日々考えるんですよ。そもそも計画ってたてられるのかみたいな、たった一つのゴール、絶対美化されたユートピアをイメージしてしまってそこに現在の自分の行動範囲から何からがんじがらめにして、身動きとれないような状態にして、つまり未来の架空の一点に金縛りになって現在の自由度とかいろんな可能性を捨ててしまう。そういう風に一つのところに執着していく。一個の安定した何も起こらない理想郷に落ち着いていくっていう計画のあり方が、身体的に嫌だったのね。

悶々としてるときにヤンツのある文章を読んで衝撃を受けた。フラーの時と同じで書いてあることはよく分からなかった。平衡、静的なバランスが究極にとれて何もおこらない、その状況に一方的に向かっていくというのは、古典的な熱力学の描いた世界じゃないか。エントロピーを減少させるような現象はかりそめにおこっても、すべてのフリーなエネルギーは使いはたされ、結局はエントロピー最大の世界になる。もう何も起こらなくなる。どんな電子も動かない。そういう状況に落ち着くけど、それはもう天国のように心配ない。なにも起こらない。究極のひとつの地平。そんな天国的退屈さを理想と思うか、あるいは、次々に予測のつかない事態が起こっていく現実っていうのはそんなに汚い世界なのか。いろんな状況のなかで僕は翻弄されて、意思がなかったわけではもちろん無くて、周囲との相互作用でここまでやってきちゃった。

今は偉そうにいってるけど、計画の現場にいたときは迷いばっかりあって、うまく言葉にならない。理想的な姿をエコロジカルに満たすっていったとしても、そこに我々はあまりに執着してしまって、他の未来を殺しているんじゃないかとか思っていたときにヤンツの本に出会い、いまは皆古典熱力学的なモデルに縛りつけられているということに気がついた、非線形非平衡の熱力学がすでに生まれていて、散逸構造だとか「動的な秩序」だとかが語られていることに衝撃を受けたんだ。あっ、そうかって。

そんな時に、ある編集者からヤンツが死んじゃったっていう連絡があって。ぼくの手元には原著だけが残った。彼の遺作だった。弔いの意味もこめて、その編集者と7年かけて翻訳したんだ。


「アート=テクネー」

鎌谷|以前CDNでお話をお聴きしたときに、芹沢さんは、アーティストは自身の敏感なアンテナで現代の問題を感知し、それを作品に昇華させる。つまり『アーティストは炭坑のカナリア』なのだ」とおっしゃれていたのが印象的でした。キュレーターという立場としてどういう風に現代美術を考えているのかをもう少し深くお聴きしたいです。

芹沢|やっぱりアートっていうのは一つの技術だと思うのね。
自分自身は技術予測とかなんか興味もってきたこともあるからそう考えるのかもしれないけど、でも最近ちょっと気になっているのはテクネーって言葉を調べていて、「テクネー」はギリシャ語なんだけど、それをラテン語に翻訳したときに「アルス」って訳される。つまりアートと技術はもとを辿れば同じ意味。つまりどちらも、その周囲の環境に対して自分がどう働きかけていくのかっていうその働きかけ方の問題だと思っていて。

で、アートは、とりわけ未来を見るとか未来を切り開いて行くための技術のような気がするんだ。自分達が生きていく上で、必要不可欠な技術な気がするんですよ。その未来を見ているっていうのは、幻影ってあるじゃんビジョン。もとからビジョンって幻覚、幻影なんだけど。だからそれも宗教的な啓示だったり、ドラッグだったり、見えないものをみちゃったとか、その領域の話とアートは結構似ている気がする。このまま放っておくとどういうことになるかというと、さっきのカナリアの話。

本当に美しいものなのに誰も気がついていないとか、その地域に住んでいる人たちは日常の忙しさの中で本来迫っている危機とか限界とかあるいは、その逆の可能性とかっていうものに意外に慣れ過ぎちゃって気がつかない場合がある。それがこう旅人だったり、異様に反応しやすい人とかだと、ここすごいじゃんとかここがやばいじゃないかとか、直感的に感じるときもある。そういったのにアーティストが向いているんじゃないかな。そういった予言とか予知とかね。

さっき言ったみたいに、未来は僕の立場から考えれば全然確定していないもので、今現在の環境と自分の相互作用によってゆらゆらゆら揺れながら現れる。ビジョンっていうのは本当に幻影だから100%どんな可能性もできるってわけじゃない。もちろん物理的ないろんな諸条件で行けない道はいっぱいあって。それでも自由度はいつもある。時間軸っていうのを作ったもんだから、一本道があって自分が歩いていくようなメタファーが一見わかりよいけれど。ほんとうは自分がここにいて次々に風景が展開していくほうが本当かもしれないし、その風景自体が自分との相互作用で瞬間、瞬間形成されていくっていうかさ。そういった中でふっと遠くで燃えている火とか、一軒家の灯火とか、そういうの、宗教家なんていうのは見ているんでしょうね。百年後とか一千年後とか、そういう射程で見ている。

アーティストというふうに言われている人たちはもうすこし短い射程で、未来をちょっと垣間見ているのかもしれない。彼らが自覚してるかどうかは別よ。わかってなくてやってる場合が多いから。そういう機能を持っているって意味で彼らをテクネーというか技術って呼ぶと怒られちゃうかもしれないけど、社会全体にとってはある装置だと笑。役割は持っていて、もしそんな役割を社会が認めて無かったらとっくにアーティストは死滅している。何の役にも立たないって言われちゃう。でもアーティストは、というかアートというある領域、機能を社会は温存させてきた訳だからやっぱり役割はある。


「動的な統合性/触媒としての建築家」

山道|さきほどの芹沢さんのお話の中で「動的な秩序」というキーワードが出てきましたが、それがすごくリンクするなと思って、そういった時に例えば計画者や建築家というのがこれからコントロールすべきものというのはどんどんメタな次元になっていくのかなという気がしていて、役割が変わって行くというか。どういったものをこれからの若い建築家は目指していったらいいのかなと、そういったお話をきかせてください。

芹沢氏|慶応の工学部の建築を5、6年おしえてたんだけど笑。その時にまず一つあるのは、建築学科を卒業したからといって別に建築ということ自体に執着しすぎなくたっていいじゃないかっていうのは言った。それはすごく下世話な話としてもだけど。

建築というのは、居住環境や、あるいは衣食住の住にあたるパートとして考えれば人生にとってものすごい重要な部分ですよね。それをあまりにも安易にお金を出して、所有したり、何も見ないで何千万の買い物する人がいるじゃん。住宅に関して言えば。ほとんど建築に関して無頓着になる人も多いから、もう少し意識を向けるべきだと思う。そう考えると今度は、建築っていうのは建築学科を出ようが出まいが、自分が生きて行くこととものすごく密着している。それに対してもう少し進んだ知識の体系だったり、実際考えることに触れやすいところにいるのが、建築学科の学生だから、そうすると、アトリエ系にいくか、ゼネコンに行くかっていう職業の選択だけで考えるともう、つまんないほうにどんどん萎縮してしまう。そうじゃなくて生きることのほとんどのところに関与しているんだって考えて行くと、何やっていっても怖くないというか、逆に何やってもできるというか、うまくいえないけど、生きることと直結してることを勉強してたり興味を持ってるわけだから。逆にそっからどのような職業に進もうが、どのような活動をやっていこうが、建築家であることに変わらないと思う。

以前にアストリッド・クラインとマーク・ダイサムと話したとき、建築家は24時間建築家だってアストリッドが言ってた。そうだよね。設計してる間だけが建築家じゃない。建築に関わっている人間を建築家と呼ぶとしたら日々生きていることが建築家だよ。日々すべてが建築に関わっているよね。自分を建築家だってちゃんと意識していれば、なにをやっても建築的なアプローチっていうのは必ずあると思うんだよ。

あと、得手不得手はあるかもしれないけど。どんどん細分化していって、ある部分のスペシャリストになっていこうと思うか、そうじゃなくて似てるものを組み合わせて何かを融合していく、統合的にやっていくっていうスタイルをとるか。そう考えると建築学科では後者の方のレッスンを主にされていると思うので、他の理系の分野とは違う、建築には一種の統合感みたいなものがあるよね。それは生きることと割と密着したトータルなもの。そういう意味ではもっと自由に社会に関与することや人生に関与することを忘れないでやっていくことが重要なんじゃないかと思うな。

コルビュジエ以後、睡眠を取る部屋、美術を楽しむホワイトキューブ、治療だけを行う集中治療室という様に、行為によってどんどん空間を細分化していったけど、ここからここまでが睡眠で、食事で、セックスでっていう様に綺麗に分節できることって無いでしょ。建築側がそういう風に細分化させて、社会の制度の中に組み込んでしまう。一つの歯車に自身も含めて押し込めようとしている。そこで齟齬が生まれてストレスが生まれる。時代が変わってきたんだから、空間を作っていったり現場にいる人たちが抵抗してそういったものを崩していく作業はしないといけないと思う。

横浜トリエンナーレ2005では丸々全てをディレクションせずにそこのアーティストに大部分を任すようなスタイルをとったのね。

横浜トリエンナーレ2005
だから最後の方はノーディレクションだったんだけど、そうすると色々な計画以上のことが多発的に起きて面白かった。そういう風な不確定性の中でいかにディレクトするかということが重要だったわけ。建築でも、ある有名な一人の美的センスだけで作りあげていくようなスタイルじゃなくて、クライアントと一緒に作って行く家だとか、地域の住民と作り上げていく公園だとか有り得て、あと作ることについて、設計して発注して工事して引き渡すっていうその一連の行為さえもぐちゃぐちゃにしたってかまわないんじゃないかと思っているね。


鎌谷―以前、お伺いした建築家の岸健太さんは、デザインをしていく過程でワークショップという形式を取り入れたり、そういう創造をすることにおけるコミュニケーションの重要性についてお話をされたり、またUnitedArtistsの川崎幸臣さんとも同じようにデザインとコミュニケーションとの関係についてお聴きしたのですが、そのように一人の美的センスだけでデザインするのではなく、ワークショップ形式などを取り入れたりして複数人と恊働で創造していく上での「作家性」というのはどのような位置に置かれ得るのでしょうか。

芹沢氏―本質的な意味での作家性というかその人で無ければならない特質とかっていうのは非常に重要ですよね。トップダウン式のツリー構造では無いやり方で作ろうといった時、前提にするのは自己組織化が起きる水平関係だ。しかしこれは、自己組織化が起こらなければ、ただの均質な平衡状態のスープを作るだけの話になっちゃう。そうでは無くて突出していくものを作りたい、それを重視していきたい。それも自発的に秩序が形成されていくのがいい。

作家性と呼んでいいかどうかは別なんだけど、それぞれの個性的な行動を均質化するのではなく、活性化させるなかで,自然に何かが生み出されていくのが素敵だなと思う。さらに、触媒的な機能というのが化学反応でものすごく重要になる時があるじゃない。そういう個々の化学反応に関与してそれを活性化させていくのも、アーティストかもしれない。ここでいう作家性っていうのは有名性って意味では無くて、周りとの関係の中で、その人の周辺でなければ起こり得ない何かが起こるっていう意味で。

そのアーティストの名前を冠してその作品とか行為が語られる意味での作家性っていうのはこれからもすたれないだろう。しかし、触媒としてのアーティストはその「場」が重要になるわけでしょ。そうなるとその一人の人の名前が取り上げられることつまり有名性という意味での作家性はあまり意味を持たないことかもしれないね。全ては関係性の中でしか生まれないわけだから。その関係性の中から生まれてくるような作家性というかオリジナルなものということに関してはすごく認めるけどね。

「混浴温泉世界」
山道―芹沢さんのこれからの展望やこれから何か考えられていることなどがございましたらお話しいただけますか。

芹沢氏―具体的な仕事に関して言えば、2009年の春に大分の別府で「デメーテル」みたいな展覧会を開催しようと思っています。

g86―おお!すごく楽しみですね!

芹沢氏―タイトルは「混浴温泉世界」っていうんだけどね笑

g86―爆笑

坂根―すごく面白そうですね!

芹沢氏―9人ぐらい世界中からアーティストを呼んで国際展としてやるつもりなんだけど、あとはライブだとかダンスだとかその他いろいろ。もう混浴温泉だから。笑g86もシンポジウムとかフォーラムとか勝手にやるとかそんなの全然ウェルカムだよ。

g86―おお!是非やらせて下さい!

芹沢氏―じゃあ寝るとこキープしとくから笑

g86―よろしくお願いします!今日は本当にありがとうございました。また必ずお会いできる日を楽しみにしております。