babel copied #003


あけましておめでとうございます。鎌谷です。


年は明け、後輩の卒制が本格的に始まってきましたが、
僕の卒制もまだ終わっちゃいません。


東京大学 前総長の小宮山氏が代表となって発足した
CoREF(大学発教育支援コンソーシアム推進機構)のサイトの
カバーページに僕の作品「La Biblioteca de Babel」を使用していただきました。

CoREFとは、「小・中・高等学校の先生方に大学から生まれる新しい知識やその教育方法を発信し、みんなで教育の質を高めること」
「その目標に賛同する大学・機関でつくるコンソーシアムの活動を推進するためとりまとめ役を担うこと」
の2つの目的のために、平成20年11月に、東京大学に設立した機構です。
このサイト内では、東大の講義のリソースを閲覧できたり、小中高用の教材等をダウンロードできる「知のポータルサイト」となっており、
非常に興味深い内容となっております。

その知の集積というテーマと僕の卒制のテーマの響き合いが絶妙ということで、使って頂く事となりました。

以下URLです↓
http://coref.u-tokyo.ac.jp/

僕の作品の掲載に尽力して下さった、安斎利洋さんならびにCoREFの方々には、非常に感謝しております。
ありがとうございました。

syn-thesis.001


g86(鎌谷潤+山道拓人+中村慶子)、クラブイベントに作品出展!
今回はコラボ作品の出展となります。詳細は以下!
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AWARE:2010年1月23日(土) 17:00-21:00

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"AWARE"は、ジャンルを問わず創る活動を行っている人の表現の場、参加する全ての人々の交流・関心を広げる場、を提供することをコンセプトとしています。
要するに「みんな集まって楽しくやりましょ!」っていうことです!

場所は青山骨董通りCLUB "ever"です。
Pubsonメンバーも御用達の最高の箱で、
第3回にして、満を持して開催です。

場所の素晴らしさもさることながら、出演して下さる方々もステキです。

everでのClubJazzイベントprimoのオーガナイザー城内宏信、promoのレギュラーDJ代田淳平が出演します。 また、agehaやWombでのビッグパフォーマンスでおなじみのイギリス人DJ Groove Patrolも登場します。

また今回は、クリエーターのコラボレーションをプロデュースします。インタラクティブアートで活動する芝崎氏と建築デザインユニットのg86がそれぞれのフィールドで培ったスペシャリティとセンスを持ちより、新しいシナジーを作品に吹き込みます。
公開世界初の、一夜限りのエキジビションを行います。

その他、中国人グラフィックアーティストAyaLuによるイラストレーションなど盛り沢山です。

オールナイトではなく、
青山で土曜日の夕方から夜まで、
心地よい空間で、素敵な音楽とお酒、仲間とのおしゃべり、
そして新しい刺激をお楽しみいただけたら幸いです。
何卒宜しくお願い致します!!

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AWARE vol.2
日時: 2010.1.23(Sat)  17:00−21:00
DJ: 城内宏信、Groove Patrol、代田淳平, kz-kiku, DAI
InteractiveART:“syn-thesis .001” g86,芝崎郁)/ gkner
Illustration:AyaLu
VJs:moris/inc:kok/Pubson
Ticket: 2,000yen(with 1Drink)
場所:club ever (エバー)
港区南青山6−2−9 KYビルB2・NYKビルB1,B2
URL:http://www.ever-site.com/
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出演者詳細(順不同)

城内宏信氏
http://www.in-the-castle.net
http://www.myspace.com/djhironobujyounai

Groove Patrol
http://www.myspace.com/groovepatrol
http://sbstrm.com/groovepatrol
http://phonikatokyo.com

g86
http://d.hatena.ne.jp/g86/


vol.23 建築家 大成優子


Onari Yuko
1974 東京生まれ 茨城県つくば育ち
1997 東京工業大学工学部建築学科卒業
1997-2002 妹島和世建築設計事務所
2002 大成優子建築設計事務所
2003-2004 中央工学校非常勤講師
2004 武蔵野美術大学非常勤講師
2005-2008 森山邸住人
2008 京都造形芸術大学非常勤講師

2009年度、東工大卒業設計展に際して、発行しましたフリーペーパーのインタビュー記事となります。

「納得するまであきらめない」
聞き手:鎌谷(g86)、丸子勇人、似鳥俊平

「都市と建物の境界が曖昧な教習所」
鎌谷|まず大成さんの卒業設計について教えて下さい。
大成|私は自動車教習所を作りました。教習を受ける人以外には閉じられている都市施設をもっと積極的に使うことで、都市がより面白くなればいいなと思って。敷地は大崎で、すでに自動車教習所があった場所です。教習所って一生に一回くらいは行くかなと。逆に言えば、行ったきり二度と行かない場所でもある。でも地図で見ると割と大きめの街区で見えてくるから、そういうところがまた行ける場所だったらおもしろいんじゃないかなと思ったんです。ここに実在する自動車教習所はすでに2層だったのですが、教習所の隣の同会社の経営するタクシーエリアも取り込んで、新たに立体的に複合させました 。
fig.1卒業設計/ドライビング スクール ビルディング


自動車教習所の練習コースや教習教室はもちろん、車の修理用に板金工場、タクシーの運転手が休憩するところや銭湯も計画しました。車の軌跡が建物内に
出てくるので、結構大きなスケールもつり合うなと考え、テニスコート、25M プール、パチンコ屋さんなどの大きいプログラムも入れました。その他にも、託児所やコンビニとかちょっとしたシアター。あとタワーを作って住宅や見晴台を設置したり。いろいろと入ってます笑。
鎌谷|確かに、教習所のような、人がそう頻繁に利用しないけど都市にいくつもある施設ってありますよね。そこに着目してデザインをしていくというのはすごく興味深いです。従来の教習所では車と人が分断してしまっていますよね。これはそれが入り組んでいる。
大成:そう。だから、車と人間っていうスケールの違いをどうやって複合したらいいかなと考えて、車のスラブと人間のスラブに分けて交互に重ねていきました[fig.3]。
もともとここの敷地は高低差が1層分ある地形だったので、それを利用して、土地の段差がそのまま上に上がっていくように。人と車は直接触れあうわけじゃないんだけど、絶えず見えている状態を作りました。食事しながら、車の練習をしているのが見えたりだとか。
似鳥|一層飛ばしのエレベータのダイナミックな感じも好きです笑。S 字クランクとかも作りましたか?
大成|作った作った。しかもこれはすごい怖い。吹き抜けのところがS 字ですから笑。遊園地よりスリリングかも笑。
丸子|教習所の相手が遊園地笑。
大成|要するに気軽に遊びにこれたらいいなと思って作ったんですよね。私もそうでしたが、学生の時に車をもってなかったので、思いっきりペーパードライバーなわけ。もっと気軽に一日教習とか利用できるといいなと思って。自転車を止めてふらっといろんなところに行けるように、気軽に自動車を止めてふらっと行ける場所にしたかったんです。
鎌谷|それが、車と人の空間の配置の仕方で明快に実現していて、すごく面白い。車と人の階高の変化はありますか?
大成|人のスケールを抑えて、車は大きくして、3mと4m かな。単純にこのまま積んでいきました。そのかわり、タワー部だけは一層の高さを4m として、それが突出して見えてくるようにしました。
fig.2 スケッチ(卒業設計/ドライビング スクール ビルディング)


全く同じ関係性ではなくて、上の階ほどタワーとスラブとでレベルの違いが出てくるので、上へ上がっていく楽しみもあるんじゃないかなと。模型はスラブの高さが違ってくる感じを出したくて、素材とかかなり無茶をしましたね。

「自分で模型を作らない意義」
大成|あと、ここで初めて学んだことがあって、生まれて初めて自分で模型を作らない。それって実はすごく設計者として私は大事だと思うんです。実際に建築を建てるときは自分で図面は書くけど、基本的には工務店とか建ててくれる人達が別にいてそういう人達に、言い方はよくないけど、指示を出すのも仕事かと。それを生まれて初めて体験するのが、卒業設計だったなと思うんです。
手伝ってくれる人が何人かいて、いつ来てもらえるかをスケジュール調整したり、この日にこの人にこれをお願いしようとか指示をしたり、材料はどれだけかかるかを計算したり。とにかくあまり自分は動かないで周りに指示を出すということが生まれて初めてだった。やっぱり苦労もしたけど、それは今後に繋がる、かなり貴重で有意義な体験だったなと思います。

「SMLXL の影響」
鎌谷|大成さんが4年生の頃の東工大の共通意識はありましたか。例えば、みんなが参考にする建築家はいましたか。
大成|私が好きだったのはレムですね。一層飛ばしのエスカレーターとか直接的に影響を受けています笑。だから、真っ白い模型というよりも、OMA のように模型に素材感があるようなものを作りたくて色々工夫をしたことを覚えています。この時期に丁度出版されたのがSMLXL。生まれて初めてあんな分厚い高い本を自分のお金で買って。製図室で枕になったりもしてましたけどね笑。 卒業設計でも、必ず手の届くところに置いて設計をしていました。すごい影響受けていると思います。
丸子|周りの人はどうでしたか?
大成|私たちが2・3年生のころに、安藤忠雄さんの六甲の集合住宅II や、近つ飛鳥博物館がどんどん完成していて、やはり影響は大きかったように思います。カチカチしたコンクリートの固まりみたいなものに、なんだかおおーと感動していたり笑。かと思うと、妹島和世さんの軽やかな建築におおーと感動していたり。私は森の別荘にものすごく衝撃をうけました。妹島事務所に行きたいと思ったのも、この作品の影響が大きいです。
fig.3 模型(卒業設計/ドライビング スクール ビルディング)


「大学院にいついくべきか」
似鳥|大成さんの卒業設計は自身の卒業論文のテーマとは関係がありますか。
大成|正直全然ないです。とにかく自分で楽しいと思えるものを作りたい、という気持ちが一番大きかったので、卒論のテーマには特にこだわらずに考えました。論文で苦しんだのでおそらくその反動かと笑。
鎌谷|それは僕に置き換えても同じことが言えそうです笑。僕たちは今、大学院へ進学し、修士論文に向けてそれぞれのテーマの研究を中心に行っています。大成さんは大学院へは行かずに、妹島事務所へ行かれたそうですが、大学院で学ぶことについてはどう思われますか。
大成|今だったら大学院へ行って研究をしてみたいとも思います。学部を卒業してすぐの時には、特に強い研究願望とかなかったんですけどね笑。大学院にいつ行くのか、ということは大きいように思います。もちろん学部を出てすぐに院に行くという選択もあると思いますが、一度社会に出たその後で院、という選択肢もありかなと。実際、外国ではそういう人も多いそうです。
 私の場合、実際に設計をいくつか経験した事で、建築に関して自分なりの考え方っていうのが、少しずつ見え始めている。自分の興味のあることも色々とあるので、今だったら行くのもいいんだろうなと。一度実務を経験してから、もう一度研究をするというのは建築ではあり得るし、人によってはその方が有意義なこともあるのかなと思います。

「納得するまであきらめない」
丸子|大学を卒業後の、妹島事務所での所員時代で学んだことを教えてください。
大成|たくさんありますが、一番大きかったのは「あきらめないこと」ですね。施工側から、作れないとか駄目だとか色々言われるんだけど、妹島さんはそれで折れることはまずない。作れない理由をしっかり聞いて、それで違う方法を考えたりして何度も交渉しなさいと、よく怒られました。自分でも結構粘っているつもりで、それでも駄目かなと思ったときも、まだ妹島さんは粘ってい
て納得するまで絶対にあきらめない。
似鳥|妹島さんの作品の抽象的で特異な形態が実現する裏には、そういった想像以上の粘り強さがあるのですね。
大成|精神的な強さというのは、本当に大事だと思う。独立してみてますますそう思います。いつも頭の中の仮想妹島さんにはっとさせられる笑。 妹島さんも独立し始めたときは、自分がこうやったら伊東さんは何とおっしゃるだろうかを考えてやってらっしゃったみたいで、
今はそれが良くわかります。

「純粋な気持ちに戻れるもの」
鎌谷|今現在、独立してから建築を設計していく中で、自身の卒業設計をどう捉えてらっしゃいますか。
大成|卒業設計では学校で設計してきた中でも、かなり純粋にやりたいことをどんどん突っ込んでいけた感覚がありますね。だから、この卒制を見ると素直に純粋な気持ちに戻れる。今回のインタビューをきっかけに久々にじっくり見返してみたのですが、この当時と今の自分を客観的に、今私は何を考えているのだろうということを、改めて見つめる事ができました。そういう意味では大事な作品ですね。
丸子|大成さんの中では、今なお卒制がご自身の設計の軸として位置づいているんですね。
大成|実際に建物を作ったことのない段階で作った最後の作品だから、そういう意味では、現在の自分との比較としてはかなり興味深いです。独立後に作った最初のポートフォリオには、時系列で新しいものから並べて、一番最後に卒業設計を載せてました。どこからスタートだっていうとやっぱり卒業設計からかなって思います。

vol.22 建築家 KUU

KUU
佐伯聡子氏 +KM TAN氏


上海を拠点にアジアを活動ベースにする建築事務所。佐伯聡子、Kok-Meng Tan(シンガポール)によるパートナーシップ。現在KUUバンコク主催のBoonsanga Tetiya Tek(タイ)はKUU上海の元パートナー。
佐伯聡子 (1973年名古屋生まれ)_1997年 明治大学卒業_2000年 ペンシルヴァニア大学大学院修士過程修了_2000-2002年 MADA s.p.a.m.勤務_2003年 明治大学非常勤講師_2008年 深セン大学非常勤講師
Kok-Meng Tan (1964年シンガポール生まれ)_1992年 シンガポール国立大学卒業_2000年 U.P.C.バルセロナ大学修士課程修了_2000年  Alvar Aalto Centennial ワークショップ参加_1999-2001年 シンガポールアーキテクト編集長_1999-2003年 シンガポール国立大学; RMIT シンガポール大学; UNSW シンガポール大学非常勤講師_2008年 深セン大学非常勤講師

(このインタビューはKUUのお二人(上海)、g86山道(東京)、g86鎌谷(北京)の3つの都市間でインターネットを通して行われ、後日、東京にて実際にお会いし議論を重ね編集したものとなります。)


「中国でスタートしたきっかけ」
山道:今日はよろしくお願いします。
KUUは上海を中心に活動しています。
まず、佐伯さんが上海で仕事をするきっかけについて教えてください。
また、上海と東京は、同じアジアの都市ですが、東京は住宅で出来た都市であると言える一方で、上海は摩天楼を思考しているように見えます。
そういったコンテクストの違いについてお聞かせください。
佐伯:こちらこそよろしくお願いします。
アメリカの大学院で修士設計時の担当講師が中国人建築家でした。卒業後、その人に上海で仕事をしないかと誘われ、それに参加したのが上海に来るきっかけでした。それが2000年で、まだ中国が今ほど騒がれることになる前のことだったので、中国でデザインの仕事をすることについて周りの人から反対されたりもしました。今では若い人含め、日本人の設計者はたくさんいますが、その頃はほぼゼロだったと思います。その事務所に数年勤めた後、日本でプロジェクトの話があり上海をいったん離れました。ただどうしても上海にやり残し感があり、2年後にまた上海に戻りその時に事務所を設立しました。
上海には過去に日本を含めた諸外国によって占領されるという苦い過去があり、街中にそれらの外国人によって建てられた西洋風住居や、それが中国風にアレンジされた里弄という住居形式がかなりの量残っています。割と早いうちに上海政府はそれらにビジネスチャンスがあると気づき、保存する方針を決めています。もちろんコンディションの良くないものは都市成長のあおりを免れずにどんどん壊されて、高層ビルに建て替えられていますが、それでもかなりの量が残っていて、新旧の混じったとても特徴のある街並みを作っています。東京とも似ている部分がいくつかあり、実はそのうちの一つが「都心部に住宅がたくさんある」という所なのです。上海都心部の住まい方は特徴的でKUUでも色々とスタディーをしています。

fig1:shanghai housing study

fig2:shanghai housing study


もう一つの共通点は「歩ける都市」ということです。北京の様に一ブロックが大きすぎて歩きにくいということもありません。
山道:なるほど。特に佐伯さんが建築をそれぞれの都市で設計する時に、それぞれの都市をご自身の中でどのように位置づけて考えていますか?
佐伯:上海にいるので上海用のスタンスがあるという訳でもありません。共通したものの捉え方のようなものがあり、それを通してそれぞれの異なるコンテクストというか現実に対応していくような感じです。残念ながら現在は東京でのプロジェクトはありませんが、中国は広いので上海とその他の都市では状況がかなり違いますし、シンガポールやタイでのプロジェクトもしています。各地で現実的に多くのことが違うので、それに対応していくうちに結果として違ったものが出来てくるのが面白いと思っています。最近は情報の共有によってどの都市にも同じような建築が建ち始め、都市間であまり差が無くなってきていることには不自然さを感じていますから、KUUというフィルターを通すことで何かその都市の特徴や面白いところが現れてくるといいなと思っています。

「スケール感の違い」
鎌谷:はじめまして。鎌谷潤と申します。よろしくお願いします。今僕は迫慶一郎さんが主宰するSAKO建築設計工社の北京事務所にてインターンをしております。ここに来て一番感じるのは、距離と時間の感覚の違いです。北京は佐伯さんのおっしゃる通り、一ブロックが相当大きい。歩きづらい。CBD地区にいるので、よりその北京のスケールを感じます。また中国は都市の更新速度が相当早い。至る所でスクラップアンドビルドの風景が広がっている。行きつけの場末の飲み屋がこの2ヶ月で3件つぶれました。笑 またそれは、迫事務所でのプロジェクトに関わっていても感じます。数百万㎡の都市計画級のプロジェクトの締め切りを1週間後に設定してきたりします。その距離と時間感覚の違いには驚きました。佐伯さんは上海で設計活動をなさっていますが、その日本との違いを具体的にどういう所で感じますか、それが設計でどういう風に反映されているのか、もしございましたらお聴かせ下さい。
迫さんも佐伯さんと同じように、北京用のスタンスがある訳ではなく、その国々の特徴を拾い上げてそこから抽出していく作業だとおっしゃっていました。ただその単位が国というのが僕にとっては衝撃だったのを覚えています。 _
佐伯:鎌谷さん、こんにちは。はじめまして。
まず距離についてですが、中国では距離というかスケールに対する感覚が違いますよね。北京のブロックの大きさについてもそうですし、開発物件のスケールをみても感じられると思います。香港やシンガポール等の土地に限りがある場所とは違って、中国人の頭の中では国や大地は無限に近い感覚なのでしょう。開発のレベルでは、共産主義であることも当然関係しています。ただ新築マンションで400平米とか、別荘で1000平米なんてものをみると正直何だこりゃと思います。好景気なので可能なことでもあるわけですが、多くはより大きく開発してより大きく儲けるという、国や中国デベロッパーの思惑です。KUUの別荘プロジェクトの2 in 1 villaでは「日常暮らすのにそんなに大きなスペースいらないでしょ」というアプローチをしています。

fig3:2 in 1 villa

fig4:2 in 1 villa


時間については、中国は早いというイメージがありますが、実際には終わってみたら意外と時間がかかったということもよくあります。確かにこちらのクライアントは初めは必ず無茶なスケジュールを持ってやってきますが、色々な意味でオーガナイズされていないことが多く、必ず途中で何度かスローダウンします。実はクライアントはその辺りも分かっていたりとか。最初はあたふたしましたが、最近は慣れてきて加減がわかるようになってきたような気がします。
もう少し長いスパンでの時間の捕らえ方も中国人は違うようです。現在はあくまで長い歴史の通過点というような意識でいるようなので、細かいことに大らか(大雑把)なのかもしれません。
迫さんの事務所と異なる点は、KUUは私とシンガポール人とタイ人のパートナーでやっているので、日本人事務所という意識がないところです。私達にとっては概念としての国とか国籍はあまり重要ではないように思います。当然私個人は日本人なのだけれども、それはもっと習慣というか体にしみ込んでいるようなレベルのものです。どの環境に住むか、どの都市に住むかは重要ですが、どの国に住むかというのはそれほど重要だとは思っていないのかもしれません。設計時にも、国の話をすると抽象的な話に終始しがちだけれども、都市の場合は気候、風土、文化、習慣といった要素をもっと具体的に落とし込めるように思います。

「中国の豊富嗜好」
山道:中国での建築家の土俵を見ていると、「大規模再開発」or「古い町家やショップのリノベーション」の二択と言い切ってもいいくらい乖離したもののように見えます。しかしkuuの提案する「2 in villa」は、そのビッグネスとスモールネスの乖離を架橋するモデルと位置づけることが出来ると感じました。
また日本人事務所という意識が無いというのが、興味深いです。しかし、「2 in villa」を見ると、‘小さな建物’と‘隙間’で出来ており、それはやはり‘東京’や‘日本’でこそ、佐伯さんが培うことが出来た都市感だと思いました。
僕自身ベトナムや、マレーシア近辺のアジアへリサーチへいきましたが、街には隙間がなく、グチャっと街全体が寄り添うように、文字通り、構造的にも本当に支え合っているんじゃないかという風景が広がっています。

fig5;ハノイの街並


そこでお聞きしたいのは、シンガポール人やタイ人の方と仕事をしていて、どのようなプロセスを経て、「2 in villa」では「小さな建物」とか「隙間」という具体的な形式にまで落とし込みましたか?
佐伯: 前述したように、小さく住もうよというのが提案としてあったのですが、設計しないといけないのは800平米の邸宅でした。よってここでは基本的な住居機能は中庭の更に内側に入れられています。そしてそれ以外はパーティー用というか、ハウスツアー用のスペースという設定になっています。この小さく、ということに関しては日本人の身体感覚に近いものが基本になっています。ただスケールについて言えば、幼少期に長屋のような場所に住んでいたKM(シンガポール人パートナー)も、心地いいものになりうるという感覚を共通しています。
ただ今回は隙間(庭)も含めて入子状にレイヤーにすることによって、ある程度の密度を生み出すことも目指したものの一つでした。というのも、中国人の共通概念というか嗜好のようなものの一つに「豊富(ふぉんふー)」というものがあって、それはニュアンスとしては「より多いもの」「賑やかなもの」という感じなのですが、それを生み出したかったのです。ただ、特殊な材料や装飾のようなものを用いるのではなくて、空間と人の行動が重なって見えることによってその感覚をつくりたいなと。よって隙間を作って空間を整理するというよりは、それによって空間の奥行きや種類を増やそうとしました。アジアのスラムの様な状態と比較するのは少し難しいですが、それでも複雑さみたいなものを作ろうとしたのです。
ちなみに、今日はたまたま金沢にいたのですが、アトリエワンのプロジェクトである「町屋ゲストハウス」に泊まることができました。最初に着いた時の印象がとてもよくて、奥の松の木までいくつかの部屋を介して見通せて、しかも土間にも庭が引き込まれていました。中からみると町とつながっていて、一番表に近い和室に座っていたら、通りを行く人が気づいて声をかけてくれる。面白いのは気づくのは子供の方が多かったということです。畳に座ると目線が外にいる子供と同じになるようですね。中国の古い住居にも見られることですが、ここでは部屋と部屋が閉じていなくて連続していて回遊できることで、空間の可能性が無限に広がっています。現在進行中の「MINUS K HOUSE」でも同様のことが基本になっています。

fig6:MINUS K HOUSE

fig7:MINUS K HOUSE


ここでは一単位が3mx3mと小さいのですが、それを繋げてさらに回遊させることで狭さを感じさせないようにしています。この3mx3mというのは小さい空間でも十分だよという考えからと、低予算であるこのプロジェクトに中国で一番凡庸なブロックによる壁構造を採用したためにスパンをできるだけ小さくするという目的もありました。
鎌谷:中国の豊富嗜好は実に面白いですね。祭りで使われるような賑やかな装飾がどんな店内にもいつも飾られているし、看板は可能な限り配置する。建築だけでなく人もそうで、でっぷりとしたお腹は富裕層のステータスとして解釈されている。そのように、一目見て明らかに富んでいる状態というのを中国は好みますね。その豊富嗜好を佐伯さんは解釈しなおして、空間的に「富んでいる」状態を作り出そうとされているやり方は非常に興味深いです。それは日本人が中国で設計をしてこそ生まれる状態なのかもしれません。それと繋がりますが、KUU設計の「SUPER SENSE SPA2」では壁を剥がすなどの引き算のデザインを取り入れている。

fig8:SUPER SENSE SPA2

fig9:SUPER SENSE SPA2


それは中国ではあまり見られない手法だと思います。引くことで全体として「富んでいる」状態を作ることはこちらにいると新鮮に映ります。
荒波の中国で新しい価値を提唱しようとされている佐伯さんの建築家としてのスタンスにはとても感服いたします。
これまではKUUでは、ハウジングプロジェクトや内装プロジェクト等を中心として活動されていると思いますが、アモイのオフィスタワー等のスケールの大きなプロジェクトもいくつかされてきています。そういったビッグスケールの建築を設計する上では、また別の論理が働くと思います。相当な資本が動きますし、様々な人が介入してきます。迫さんは、そういう状況で、明快な「主題」と「タイトル」を作品毎に与えることで、スピードを保ちつつ共有を図りながら、プロジェクトを進行させています。
そのような資本と人が大きく動く状況の中で、設計をしていく上で、佐伯さんはどのようなことを意識しておられますか。
佐伯: そうそう「富んでいる」ことですね。何かと賑やかなことが好きなのです。よって「SUPER SENSE SPA2」でも引くということと同様に重ねるということも意識しています。1930年代の建物なので、オーナーや用途が変わるたびに壁紙やタイルが剥がされたり、重ねづけられたりして今がある。そしておそらく今のオーナーが最後ではなく、これからも同様のことが続いていく。よって古いものが全て重要で保存とか、古いから要らないとかではなく、現在を歴史の一過点のようにとらえて、既に重なってきたもののいくつかを剥がし、新しいものを更に重ねて上塗りしていくような作り方をしました。そしてその重なりが「豊富」というあらわれ方をするといいな、と。
私たちにとってはマスタープランニング、建築、インテリア、家具も、設計の手法とては差異はあまりありません。もちろん規模を含め諸条件の種類が違ってきますが、それの整理の仕方は同じことです。よってどれも同じようにやってみたいのですが、残念ながらマスタープランや建築のプロジェクトはその諸条件が複雑なので、途中で止まってしまうことが多く、いまだ実現したものがありません。「MINUS K HOUSE」が冬に竣工すれば最初に完成する建築になります。それ以外にも「FACTORY K」(image09,10)や「BAIXI VILLAGE」
(image11,12)等の中止になってしまったけれども、是非完成させたかったプロジェクトが多くあります。

fig10:FACTORY K

fig11:FACTORY K

fig12:BAIXI VILLAGE

fig13:BAIXI VILLAGE


ただ中国の大規模プロジェクトで気をつけないといけないのは、私たち建築家が関われる範囲が限られてくることです。基本設計までしか携わることが出来ずに出来上がってみたら違うものになっていたということがよくあります。それはこちらでの法や仕組みが違うからなのですが、やはりそれでは私たちとしても意味がない。よって最初から最後まできちんと見させてもらえる、インテリアや小規模なプロジェクトを好んでやっているということもあります。
それからどの規模のプロジェクトにしても、最終的にどのような空間になるのか、どのような使われ方をするのかに興味があります。言葉はそれを説明するためには使用しますが、それ自体が建築のアイデアをイニシエイトしたり、定義したりすることは少ないです。

「中国におけるメディアの可能性」
山道:一番興味を引いたのは中国の法や仕組みの違うという点です。実施設計をする設計院という組織があるので建築家は基本設計のみを手がけると書かれていました。また、「詳細図面よりも、現場で職人さんにヴィジュアルで説明することの方が大事」と、非常に現場主義というか物に近い実践の必要性を、商店建築のインタビューで読ませていただきました。
そういった状況の中で、佐伯さんは「私たち建築家が関われる範囲が限られてくる」とおっしゃられました。「富んでいる」状態を目指す、設計以外の建築家のメタな思考というか、中国の建築界(もしくは社会)へメディアを通してマニフェストを掲げたりといった活動の可能性や、教育の可能性についてはどう考えますか?
KM:中国のメディアは建築の議論や潮流には興味はなく、出来たもののヴィジュアルしか報道しません。「写真をください」というだけでアイデアを伝えることはなかなか難しいですね。

山道:中国のメディアは建築的思考やアイデアを伝えづらいという事ですか。

KM:そうですね。中国の建築メディアは若いからだと思います。中国では建築の仕事がたくさんあるので、若い人も大学を卒業したら仕事を得やすいし、給料も悪くない。だから教育や批評の道へ進んだり、雑誌の編集者になる人というのが少ないのも原因の一つかもしれません。

佐伯:中国ではボトムになる建築の概念が無いので、皆何を信じたらいいのかわからないということも言えると思います。世界で建築がモダニズムだどうだと言っていた時には、国内の情勢が不安定でそれどころではなかった。その後もずっと国は閉じていたのです。80年代になってようやく経済の開放と共に情報も増えてきて、西洋建築と共に磯崎さんや黒川さん等が紹介されるようにもなった。それでもまだ中国では建築のディスコースがびっくりするくらい無い。
また今の中国ではコンテンツよりスピードが求められるのも、ディスコースが育たない理由の一つかもしれません。

山道:シンガポールではどうですか?

KM:ここ十年で批評の土壌は整ったと思います。アートやソーシャルスタディーズなどの土壌も同時にそろって来ていてクロスオーバーしてきていると思います。
中国のメディアについて詳しく話しますとそれらは3つに分類されます。
一つ目は古いからあるもの。エルデコとか。ジェネラルで、ライフスタイルマガジンみたいなもの。
二つ目は、大学により発行されるもの。大学出身者の建築作品のアーカイブみたいなものですね。
三つ目は、ドムスとかa+uなどの海外のものの中国語版。
これらが、断絶してしまっています。

山道:日本でも雑誌の休刊が相次ぎ、ネットメディアの活用が随所で見られます。中国ではネットメディアの可能性についてはどう思いますか?

KM:そういえばシンガポールにはあなた達のような三つの学生のグループがあって、それが今では建築家のグループになりました。とても興味深い方法だと思います。

佐伯:私があなた達の活動を面白いと思うのは、雑誌に登場しない人に注目しているという点です。雑誌というのはたいがい同じ人しか取り上げません。「若手特集」と言えば、どれも同じ人。売り上げのためにはしょうがないのかもしれません。
中国の大学はすごいコンサバです。まだまだ教授の言う事が絶対で独立した思考を持つのがすごく難しい。今でも磯崎さんがいいとか、IMペイがいいとか、時間が止まっている。石上純也さんのような新しいコンテクストで仕事をする建築家を古くからの教授達が正確にジャッジできない。

KM:中国では講評会のときにも教授同士でも、批判的なことは言う事はありませんし、礼儀正しさを大切にする傾向があります。

佐伯:私たちが去年深セン大学で教えていた時にも「建築には色々な可能性があるんだよ」といった基本的なことを伝えるようにしていました。
本来中国ではネット上の議論はとても活発です。若い学生がそこに何か仕掛けていくことがもっと起きていくといいなと思います。

「地元に開くという方法」

山道:インタビューの冒頭に「引き算のデザイン」と鎌谷が言っていましたが、金沢のまちやゲストハウスでは、アトリエワンは、まちやを丸ごと作り替えるわけではなく、シンプルな方法で修理をして、ギャラリーやゲストハウスとして使いましょうという枠組みの変更を提案し、開いた町家のあり方を提案しています。こういう方法論は、古い街と再開発が混在する中国ではありえますか?

佐伯;あのプロジェクトを見させていただいて、地元に開いたあり方がとてもいいと感じましたし、それこそ、今度は地元の人が、あれを見て、次に繋げられるかが重要ですよね。

山道:以前、金沢に行ったときに、地元の人の中に町家にいい思い出ないとおっしゃっていた方がいたのが印象的でした。

佐伯:上海も同じ状況だと思います。私たちが古い家を見てこれはすごいと感じても、実は劣悪な環境だったりします。住んでる人たちにとっては、抜け出したいというところもあるかと思います。私たち建築家が考えるべきは、壊すか、そのまま完全に残すか、という0と1の世界でなくて、今どのように使えばいいのかを考えるべきだと思います。

山道:地元に開くというありかたがいいとおっしゃられましたが、KUUの事務所も古い民家を改修していて、内部にはギャラリーを内包していますよね。

佐伯;中庭の壁をギャラリーとして使っています。

KM:ビエンナーレにも飽きたので、ギャラリーオブエブリデイライフ笑。

fig14:KUU OFFICE


山道:笑。KUUのオフィスのあり方というのは、僕らが目指しているものそのものです。事務所内部に他者が展示できるようなスペースがあると、自分達の思考のジェネレーターになり得ると考えています。

「現場で考える」

山道:中国では設計院があるので、基本設計までしかしないので、それとともに詳細図面よりも現場で模型などでヴィジュアルで正確にやりとりしていくことが重要とありましたが、その中で育まれる独特の方法論などはありますか?

佐伯:人件費を気にしなくていい事ですよね。例えば、小さなタイルや装飾をズラーっと手作業で貼って行く意匠なんかは日本では絶対に出来ないけど、中国だと、工業製品を使うより逆にその方が安かったりします。
私たちがやっているハウジングスタディーでもブロックを手作業で積んで行きますが、人件費が安い事から発想の転換をすることがよくあります。

KM:あと中国では‘見積もり’が大雑把なので‘決断’を現場まで持ち込むこともできるというのも特徴の一つですね。工事が始まったあとで現場で見て仕上げを変えてることも出来る。

山道:現場でどんどん作り替えて行くのはアレクザンダーのようでもありますね。

佐伯:そうですね。フィックスしないおもしろさもありますよね。昔は日本の庭園なんかでも、あそこに木をもっと植えたらいいのではとか、ここに月見のスペースを作ろうとか、現場で柔軟に作り込んで行ったと思います。

「設計の実況?」

山道:コンピューターを使った設計についてはどうお考えですか?
佐伯:「遠隔操作」のようなやり方には興味があります。
上海やシンガポール、タイ、日本に渡って仕事をしていく際の新しいやり方として、コンピューターを活用するというのはありえると思います。現場に行けなくとも実況するとか笑。

山道;そういえば海外で新人の医者が手術をしなくては行けない状況になって、ベテラン医師からtwitterか何かで、指示を受けて手術を成功させた例がありましたね笑。

KM:設計をコンピューター化していっても、空間は変わっていないと感じます。例えば、フランクゲーリーやザハハディドの昔の作品と現在の作品では、ツールのコンピューター化が驚くほど進んでいますが、空間の質はそんなに変わっていないですよね。だからコミュニケーションには寄与しても、空間を変えうるとは必ずしも言えないと思います。

「これからの展望」

山道;KUUのこれからの展望を聞かせてください。

KM:両義的なことを考えて行きたいですね。アジア的なことと、ヨーロッパ的なこと。情報がシェアできる時代に何ができるかということを考えたいですね。現在の建築教育は西洋建築が基礎になっていますから、アジアの人は西洋を比較的良く知っている。ただ西洋の人はアジアをまだあまり知らない。安藤=シンプル、SANAA=軽いみたいな記号的なことで止まっているので、その状況が何とかできればいいなと思います。今はブログや出版物の中でそういったことを発信するようにはしています。

佐伯:そのためにも、プラクティスつまり建築を実際に作るという立場も大切だと思っています。作ることで見えてくる地域性というものや建築の手法というものがあり、それがまた次の思考やプロジェクトへと繋がっていきますから。

あとは先ほども言いましたが、漠然とあるイメージは遠隔操作みたいなものです。建築は現場があってその土地に縛られるというのは必須だと思うけれど、その一方で色々な場所で暮らすという豊かな経験も大切にしたい。よって拠点が色々あって、各所をまわりながら、、、なんてことが出来ないかなと考えています。

山道:建築が他の科学と違って面白いのは、そもそも矛盾のようなものを内在しているという点です。何も無い場所に壁を建てなきゃいけない。だから窓をあける。
KUUの目指す、遠隔操作のような離れていることの可能性と、最後まで決めないというような現場の可能性を考えることというのもそういった建築に元々内在している矛盾との格闘から生まれてきた思考だと言えると思います。今日はありがとうございました。

babel copied 02 レモン画翠卒制セール

お久しぶりです。鎌谷です。
数日前に中国から帰国しました。
この3ヶ月間相当刺激的な毎日でした。
また後日中国については書いていこうと思います。


さて、以前レモン画翠さんの方から卒制期間中のセールに配布する
フライヤーとメンバーズカードに僕の卒業制作「La Biblioteca de Babel」を使いたいとの
連絡を受けまして、是非とも!と快諾しました。
それが昨日刷り上がったということで送って頂きました。


すごい!こんなに大々的に使って頂けるとは。
メンバーズカードまで僕の作品の一部が掲載されています。
全体的に作品と同系の色調で統一感のある仕上がりになってます。

感動してしまいました。


レモン画翠さんは東京の建築学生なら一度はお世話になっている
設計製図・建築模型・デザイン・絵画材料の専門店。
学部の頃からよく利用させていただいたお店で、
この作品のほとんどの部分で使った片面段ボールも
都内のお店でレモン画翠さんしか取り扱っていなくて(今はわからないけど)本当助かりました。

でも、それぐらい利用していた僕ですが、卒制中はこんな格安セールをされているとは知りませんでした。
もう少し計画的に利用していれば節約できたな・・・
これから卒制を始める学生のみなさんは是非このチラシとメンバーズカードを持って
いい買い物をして、いい作品を作ってください!
(メンバーズカードを提示すると★の商品が5-10%さらに割引になるそうです。)


今回、このような形で僕の作品を掲載してくださった
レモン画翠さん、そしてレモン画翠企画部の石井眞理さんには
本当に感謝しております。
ありがとうございました。


あの卒業制作からもう1年が経とうとしていますが、
それでも漫画家の森島明子さん、レモン画翠さんのように
作品を使って頂いて感謝の気持ちでいっぱいです。
これからもどんどんバベルが派生していってくれたらなと思います。

vol.21 建築家 高橋晶子


Takahashi Akiko
1980 京都大学工学部建築学科卒業
1986 東京工業大学博士課程修了
1986 篠原一男アトリエ(〜 88)
1988 ワークステーション設立
2004- 武蔵野美術大学教授
2009年7月に開催した東工大卒業設計展に際して、発行しましたフリーペーパーのインタビュー記事となります。


「説明するリテラシー
聞き手:鎌谷潤(g86),丸子勇人,宮城島崇人



「卒業設計/京都大学
鎌谷|高橋さんは京都大学で卒業設計をされたそうですが、卒業設計ではどういった設計をされましたか。
高橋|自分の実家(静岡県富士宮市)に建つ公共性の高いホールと広場を設計しました。私は80 年に卒業しているんですが、当時は実家には文化施設が無くて、0( ゼロ) のところに1個作りたいというスタンスでした。大都市にはそういうファシリティーは整っていたんですが、地方都市にはこれからという時だったので、まちのセンターの更新が出来て、顔を強化出来るような公共空間を作ろうと考えていました。富士宮では神社がまちのセンターになっていて、そこに参道のアクシスがありました。そのアクシスを延長してアクシス上に神社と対面するように文化施設を作ったということです。
鎌谷|地方都市のコミュニティのあり方を、その場所の歴史を踏まえ、敷地の情報にそれを翻訳し、設計されている。その敷地の読み込み方が明快で共感が持てます。学部時代から、地方都市に対する問題意識は持っていたんですか。
高橋|それが自分の問題意識の根幹になっているとは甚だ思えなくて、月並みなことを考えていたと思います笑。
宮城島|では、京大内では社会や建築に対する何か大きな問題意識を共有されていましたか。
高橋|当時は、磯崎さんを中心に、様々な問題意識の投げかけも出ていたのですが、私の周辺では同時代に敏感な人たちは意外と少なくて、それぞれがそれぞれに好きな建築家を探して好きなように勉強しているというような環境でした。もちろん建築好きの仲間はいましたが、
みんなで問題意識を共有することはなかったと思います。その時に抱いていた建築に対する消化しきれなかった考えは東工大に来てやっと解消したんですね。だから東工大で篠原先生に触れたときに自分の設計の第一歩が始まった。建築観や、社会に対する建築の位置づけなどがそこで初めて身に付いたと思っています。

「篠原スクール時代」
丸子|僕たちは篠原先生が亡くなられた年に入学したので、先生と直接触れ合う経験が無いんです。でも、今でも作品集や論考を見て議論し合うほど、先生の影響を受けています。当時の篠原先生のお話をお聴かせ下さい。
高橋|噂どおりカリスマ性が強い先生でした。住宅が主体だけれども、生活から入る建築とは全く違うアプローチだったので、学部生の頃からすごく魅力的だと感じていて、相当作品集などを読み込んでいました。研究室に入り、設計や建築観等々、様々な形で直に影響を受けましたね。具体的にいうと、先生が担当の輪読をする授業があった。そこで、ロラン・バルトの本をテキストにされたんです。それはイメージの意味作用についての本だった。バルトは記号論には収まりきらない、ものの意味に関わる話を非常に鮮やかに論じていたんですね。私はその本をすごく気に入って、意味作用について研究した修士論文を書きました。その後博士課程に進み、先生の作品の設計を担当しました。
似鳥|どういった作品を担当していたんですか。
高橋|私が担当したのは、先生の自邸でもあったハウスイン ヨコハマ。篠原研の場合は、担当者が一番年が若い人という教育的なルールが当時ありました。ですから、先輩たちに助けられながらも鍛えられましたね。
鎌谷|ハウス イン ヨコハマを僕たちと同じ年頃に担当されていたとは、とても羨ましいです笑。篠原先生は一つの作品にかける設計期間がかなり長かったそうですが、研究室の中ではどのように設計を進めていたのでしょうか。
高橋|設計活動はいわゆる民間の事業とは全然違うスピードでとてもゆっくりとしていたことと、事務処理系の業務はほとんどオミットされていたので、純粋にかたちを作っては直し、それをみんなで話し合うというようなことの繰り返しでした。先生は案が時間に耐えられうるかをすごく気にしていらした。だから、スタディは長い時間をかけて、毎日少しずつ少しずつ一進一退を繰り返しながら進めて行くスタイルでした。そのスタディ途中の先生を交えた議論は相当集中力を要するものでしたね。そこで建築の見方、考え方の多くを学びました。
似鳥|篠原先生の印象深かったお言葉はありますか?
高橋|よく「休んではいけない」と言われていました。やっぱり先生はパワフルでしぶとかった。相当反芻して考えをまとめていって、またそれを次の作品でも反芻するという、そのしぶとさが、悪い意味での作品主義になっていない理由のひとつだと思います。とにかくその言葉が私には一番大きかったです。

fig:ハウスインヨコハマ(設計:篠原一男研究室)

「再定義すること」
丸子|今は高橋寛さんと共同でワークステーションとして設計活動をしながら、武蔵野美術大学でご指導もなさっていますが、そこでは卒業設計に関しても教えることが多いと思うのですが、そういう所で心がけていることなどはありますか。
高橋|武蔵美の学生たちはスクラムを組んで一つのテーマを考えてみたり、ある分担したポジショニングを意識して話すということはあまりないですね。ただ、ベクトルやテーマを共有しうるグループを育てていくことは意識しています。よく学生に言うことは、「再定義」ということ。その場の状況をよく見て、定形じゃない提案をそのつどすると何かいいことが起きるんじゃないかとか、そういうスタンスでものを見るように話しています。甚だ東工大的かもしれないけど笑。

fig:高知県立坂本龍馬記念館( 設計:ワークステーション)

鎌谷|美大の卒業設計は、一分の一で作る人や、都市スケールで作る人などがいたりして、いろんなスケールの作品があるのが特徴的ですよね。
高橋|そうですね。穴を掘った人もいる笑。そういうインスタレーション作品をつくる人もけっこういます。武蔵美は大学全体が卒業制作するんですね。だから数日間は学校全体が美術館みたいになるんです。それに、他学科の作品と同じように並べられてあるから、学科を超えたつながりがそこに生まれているのが非常に興味深いですね。
宮城島|それは面白いですね!展覧会でまた、自分の作品の違った見方が発見できそうですね。
高橋|そうですね。ただ審査するには、表現媒体の違いが大きくて審査が難しいです。

「説明するリテラシー
鎌谷|京都大学東京工業大学、そして武蔵野美術大学と様々な大学と関われてきた中で、東工大建築に対してどのような考えをお持ちでしょうか。
高橋|血統のようなものを感じます。谷口、清家、篠原、坂本とずっと背負ってきている社会でのポジションや社会への問題意識の変遷を追いかけられる大学は少ないと思います。だから東工大の人たちの中には、継承するというか脈々と伝わっていくものが大きいと思う。それは
色々な形で。一部では反面教師としてでも伝わって行く。ブランドというと誤解されるかもしれませんが、かなり強固な縦のつながりを持ちながら広がっていくあり方がとても面白いと思います。比較すれば、京大はもう少しフレンドリーで、横にひろがっている感じがする。

fig:地域資源活用総合交流促進施設( 設計:ワークステーション)

鎌谷|なるほど。僕は今、展覧会のメンバーでもある山道、坂根たちと、その東工大スクラムを相対化する必要があるんじゃないかと考えて、他分野の最先端で活動している方々へのインタビュー活動や他大学の学生を集めた議論の場を企画したりして、僕たちオリジナルの評
価軸を見出そうと試みています。それはある種、東工大が反面教師なのかもしれません。笑
高橋|東工大って専門性が高いので、いい意味で玄人の中で深い話が出来ていく。一方で、阿吽の呼吸でみんなが話しているので、外の人からは分かりにくい、せまいというようなことは前々から言われてきた。建築の行為というものの表現のあり方がどんどんと多様化して、多義的になってきている中で、一般の人や専門領域が違う人の良さや個性をうまく引き出すために、いかにコミュニケートしていくかが重要になってきていると思います。つまり説明するリテラシー。それについては確かに、私は東工大時代学んでなかった。かつて、ある公園のコンペの審査に参加したんですが、審査員が都市計画や、造園、文化人類学など、色々なジャンルの方々で、そこでこの課題にぶち当たったことがありました。ある案をどうしても分かってもらえず、東工大の中では当然分かるというようなことも、丁寧に順を追って説明したのだけど、評価を変えることができなかった。そういう場面で自分のリテラシーのなさを感じたんです。
鎌谷|まさにそこで、多様化、複雑化した現代社会の中で、建築も必然的にそれを要請されている。そんな中で、東工大建築をもっと相対化する必要があるんじゃないかと思うんです。
高橋|私たちはそのコンペの後からは、自分たちがどういう領域の中で集中的に生きるかを考えるようになりました。だから、そういうポジショニングは自分のベクトルや専門性を鑑みて、時間をかけて環境設定していけばいいと思います。そこにはどれが良い悪いとかは無く、やはりある相対化の中でしかないと思います。そっかぁ東工大にもどんどんそういう波が来てるのね。笑
一同|今日はお忙しい中、ありがとうございました。

fig:インタビュー風景